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【2020年2月11日】建国記念の日!「日本」という国号と天武天皇《前編》

《この記事の文字数:約4,400》

ちょっと読み応えアリ

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やっぱり前後編になった。笑

どうも、chimonです。

 

今日は建国記念の日

 

この日がかつて、初代神武天皇が即位した日を記念した紀元節という祝日であったことは知っている人も多いでしょう。

 

諸外国と異なり、日本はどこを以って建国と言うかは難しいのが事実ですが、初代天皇即位を以って「建国」としたわけですね。

 

 

この時点で、当たり前のように国号を「日本」と呼んでいるわけですが…「日本」という名前も歴史的背景の中で形作られたものである、ということをご存じでしょうか?

 

そこで、今日・明日2日間は「日本」という国名がどのような背景で生まれたものなのか、掘り下げていきたいと思います!

 

 

1. 国号「日本」の誕生

(1)かつては「倭国」と呼ばれたこの国

「日本」と呼ばれるようになる前、古代においてこの島国は倭国(わこく)」と呼ばれていたことは、ご存じの方も多いと思います。

 

卑弥呼も登場する中国の「魏志倭人伝」や、福岡の志賀島で発見された金印に刻まれた「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう:委=倭)」でもおなじみの名前ですね。

 

 

卑弥呼については、こちらの記事をどうぞ!

himekuri-nippon.hatenablog.com

 

 

倭という名称の由来については諸説あり、昔からさまざま論じられてきたようですが、ハッキリとは分かっていないようです。

 

一般的には「中国側がつけた蔑称だった」という説が知られていますが、異論も存在しており、実際には特に蔑称ではなかったという説も。

 

 

ただ、後で詳しく述べますが、大和政権側が「倭」から「日本」へと名称を改めたということは、中国や朝鮮がつけた名称を自国名として長らく使っていた、というのは間違いなさそうです。

 

 

また、日本では「倭」を「やまと」と読んでいました。

 

これは、当時最も力を持っていた政権が大和国(やまとのくに)にあったためと考えられ、この政権は「大和政権」と呼ばれます。

 

倭を「やまと」と呼ぶようになったのは、古墳時代あたりに漢字文化が日本に伝来した際、中国が使っていた「倭(わ)」という国名の漢字に「やまと」の音が乗せられたからなのでしょう。

 

ということは、古墳時代には「大和政権」が日本を代表するほどの権力を手にしていたってことになりますね!

 

 

漢字伝来の話は、この記事でも取り扱っています。

himekuri-nippon.hatenablog.com

 

(2)日出づる処の天子

それでは「日本」という国号は、いつ誕生したのでしょうか?

 

まず、日本史の教科書でも出てくる有名な話を思い出してみましょう。

 

 

何十年前だろうが、思い出すんです!良いですか?笑

 

 

 

607年、推古天皇の摂政として聖徳太子が政治を司っていた時代。

 

小野妹子が遣隋使として中国・隋に派遣された、という出来事がありました。

 

 

小野妹子だけど男!」っていうくだらない話で笑い合う、という日本の子どもあるあるを経験したはず!笑

 

 

この時、小野妹子が隋の煬帝(ようだい)に持参した書の一節を覚えていますか?

 

 

「日出づる処の天子〜」という一節。

 

 

これを見た煬帝は激怒したという話も有名ですね。

 

 

煬帝、実は「日出づる処」っていうところに怒ったんじゃなくて、「天子は一人なんじゃい!」ってところに怒ってたらしいですがね。脱線しました。笑

 

 

今回重要なのは「日出づる処」という一節です。

 

まさに、これが「日出づる処」=「日の本」=「日本」という国号に繋がるわけ。

 

 

 

だからと言って、推古天皇の時代に「日本」になったというわけではありません。

 

ただ、「(当時の先進国だった)中国の東にあるこの国は、日の本にある国!」っていう認識が大和政権にあった、ということは歴史的背景として重要です。

 

 

(3)国号「日本」の誕生

つい先ほどお話ししましたが、「日の本にある国」という認識はあれど、すぐに「日本」という名称が使われたわけではありません。

 

 

いつから用いられるようになったのか、ヒントは当ブログで度々取り上げている、あの歴史書にありました!

 

 

 

ひじき…ひじき…ひじき…

 

 

 

そう!古事記ですね!

 

あとは日本書紀

 

 

この2つの歴史書は、合わせて記紀(きき)」と呼ばれているんでしたね。

 

 

古事記は712年、日本書紀は720年成立。

 

 

日本書紀は、2020年で成立から1300周年。これを記念して東京国立博物館で開催されているのが「出雲と大和展」です。)

himekuri-nippon.hatenablog.com

 

 

あることに気づきませんか?

 

 

 

古事記日本書紀

 

 

 

日本書紀

 

 

 

あ!「日本」って入ってる!!!

 

 

 

そうなんです。

 

720年に成立したとされる日本書紀は、タイトルにいきなり「日本」が入っているのです。

 

 

っちゅうことはですよ、日本書紀が成立するまでには「日本」という国号が誕生したと考えるべき。当時の読み方は「にっぽん」でも「にほん」でもなく、この字で「やまと」だったみたいですが。

 

 

一方の古事記では、「日本」という名称は出てきません。

 

古事記の中では「倭」で「やまと」と読んでいるんですね。

 

 

一番分かりやすいのが、第12代景行天皇(けいこうてんのう)の皇子で、西へ東へ征伐に派遣されたヒーロー・ヤマトタケルノミコトの名称。

 

古事記での表記は「倭建命」であるのに対し、日本書紀では日本武尊

 

まさに先ほどご紹介した通り、古事記では「倭=やまと」、日本書紀では「日本=やまと」が用いられていますよね?

 

 

このことから、8世紀初頭が「日本」という国号への過渡期だったと考えられるわけです。

 

 

2. 「天武天皇」「はい、テスト出まーす」

(1)君は天武天皇を知っているか

記紀が成立した時代あたりが、「日本」という国号の誕生期であると考えられるわけですが…

 

国号誕生について探る上で知っておかなければならないのが、記紀の成立した時代背景です。

 

 

当ブログでも何度かお伝えしてきましたが、古事記は「天皇を中心とした歴史を伝える国内向けの歴史書日本書紀は「天皇を中心とした正史を外国(主に中国)に伝えるための国外向けの歴史書

 

 

問題は、なぜこの時代に2つの歴史書を編纂しなければならなかったのか、ということ。

 

 

記紀の編纂を命じた人物こそが、第40代天武天皇でした。(ただし、成立前に亡くなっているので、実際に成立したのは後の天皇の時代)

 

天武天皇が行った数々の施策の1つが「記紀の編纂」であり、「日本」という国号の使用だったのです。

 

 

 

教科書での扱い以上に、超重要と言って良い天皇の一人。

 

 

(2)「大化の改新」おお、教科書。

天武天皇が、記紀の編纂を急いだのは大化の改新壬申の乱という、2つの古代史上における大事件が関係しています。

 

どっちも教科書で絶対に聞く名前ですね。

 

 

「むしごはん、大化の改新」でおなじみ(笑)、645年に発生した大化の改新

 

 

どんな事件か忘れた、という人のために超簡略化してお伝えしますと…

 

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかたまりかまたり)が協力して、当時専横政治を敷いていた蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)親子を打倒したこと(乙巳の変<いっしのへん>)に始まる、一連の政治改革」

 

といった感じです。

 

 

ちなみに、大化の改新中大兄皇子中臣鎌足による蘇我蝦夷・入鹿の打倒」という点は要注意!

 

あくまでも、それをきっかけに進んでいった政治改革全体を指して「大化の改新」と言います。

 

 

中大兄皇子は、後の第38代天智天皇(てんじてんのう)天武天皇のお兄さんです。

 

 

中大兄皇子蘇我氏を打倒しなければいけなかった理由こそが、後に天武天皇が行った施策に通じるものでした。

 

 

ずばり「中央集権化を進めるため」

 

 

要するに「絶対的な権力を持つ天皇を中心とした国づくり」を進めたかったのです。

 

 

当時のヤマトは、隣の強大国・中国にいつ侵略されるか分からない、というドキドキ臨戦モード

 

強い国に対抗するためには、それまで各地の豪族が緩やかに繋がるだけだったヤマトを、一人の強大な権力者が治める「まとまった国」にしなくてはなりません。

 

そこで中大兄皇子は、豪族のくせに幅を利かしていた蘇我氏を倒し、天皇を中心とする強い政権を作るべく、大化の改新を断行したというわけなのです。

 

 

(3)影のボス、中大兄皇子

この中大兄皇子第34代舒明天皇(じょめいてんのう)と第35代皇極天皇(こうぎょくてんのう)の皇子という、この上なく天皇に近かった存在。

 

つまり、もっと早い時期に天皇になっていておかしくなかったのです。

 

 

ところが、乙巳の変の後、母・皇極天皇は弟に譲位して第36代孝徳天皇(こうとくてんのう)が即位しています。

 

とは言え、孝徳天皇は「お飾り」のような状態で、実権は全て中大兄皇子が握っていたと言われているのです。

 

 

さらに孝徳天皇崩御すると、母・皇極天皇が第37代斉明天皇(さいめいてんのう)として再登板

 

 

中大兄皇子の母は、第35代・第37代と2回にわたって天皇に即位していますが、こうした状態のことを重祚(ちょうそ)」と呼びます。歴史上2名しかおらず、超レアな事例。

 

 

しかも、斉明天皇が661年に崩御した後、中大兄皇子が第38代天智天皇として即位するのは668年のこと。

 

え?

 

 

そうなんです!661年〜668年の間は、まさかの天皇空位期間!

 

中大兄皇子は皇太子のまま、政治の実権を握っていました。これを「称制(しょうせい)」と呼びます。

 

称制も、記録上2名しかいないと言われており、これまた超レアな事例。

 

 

 

こうまでして、中大兄皇子が影のボスでいたかったのは「政治的な理由」があったと言われています。

 

 

中央集権化を進めるには、天皇家内や有力皇族で敵対する勢力を粛清する必要がありました。

 

天皇自ら粛清した」ということになると、色んな方面から非難を浴びることは必至。まだ中央集権化を成し遂げていませんから、下手すれば天皇の権威失墜を招きかねませんよね。

 

だから、あえて天皇に即位せず、裏から中央集権化を推し進めたということなのです。

 

 

黒幕感がスゴい!笑

 

 

 

そんな中大兄皇子天智天皇として即位し、中央集権化が完成するかと思われるのですが…

 

 

ここから、もう一つの重大事件である壬申の乱に繋がっていくのです…

 

そして遂に天武天皇の時代がやってきます。

 

 

 

と、今日はここまで!

 

後編では、天武天皇の行った政治・「日本」という国号が誕生した背景について迫っていきます。

 

お楽しみに!

 

 

《後編へ続く》

 

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 ▽

chimon

 

 

(参考文献)

武光誠監修『マンガでわかる天皇池田書店, 2018

山折哲雄監修、田中治郎著『新版 面白いほどよくわかる日本の神様』日本文芸社, 2013

 

 

※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。