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【2020年6月29日】今日は「佃煮の日」!〜佃島・石川島・月島の歴史《前編》

《この記事の文字数:約4,000》

 ちょっと読み応えアリ

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佃煮の話からズレます。笑

どうも、chimonです。

 

ちょっと更新間隔が開いてしまいましたが…今日6月29日は「佃煮の日らしいのです。

 

どういう由来?と思って調べてみると、東京佃島に関連する記念日だということがわかりました。

 

実は「佃島」というのは、東京でもなかなか興味深い土地でして。学生時代に都市社会学を学んでいたchimonは、この付近の文献を読んだ記憶もあります。

 

そんなこともあり、今回から「佃煮の日」にちなんで、佃島や周辺の石川島・月島に関する歴史を紐解いていきたいと思います!

 

「一応」2回シリーズの予定。場合によっては、もっと増えるかも。笑

 

1. 「佃煮の日」って何?

(1)「佃煮の日」に込められたこんな理由

それでは、まず6月29日が「佃煮の日」である理由に迫っていきましょう。

 

「29(ツク)」だから佃煮?くらいの軽い気持ちで思ってたら、全然違いました。

 

 

佃煮の日」は、「江戸・佃島住吉神社が建立された日(1646年6月29日)」にちなんでいるらしいのです。

 

何だかよくわからん理由ですよね。

 

 

前提として、「佃煮の発祥の地が東京の佃島と言われている」というお話はご存じでしょうか。佃島で生まれた煮物だから、佃煮。(諸説あります)

 

この佃島にある住吉神社と佃煮は、深い関わりがあるそうなんです。

 

へぇ。

 

 

これを読み解くには、佃島というのがどうやって誕生したのかということを理解しておく必要があります。

 

 

(2)東京の地名なのに大阪生まれ?

ってなわけで、佃島の誕生秘話を見ていきましょう。

 

あ、ちなみに日本や東京の都市計画に興味があるという人は、こちらのシリーズ(連載中)がオススメです!

himekuri-nippon.hatenablog.com 

himekuri-nippon.hatenablog.com

 

 

話を戻しまして…笑

 

佃島の位置を確認しておくと、こんな感じです。

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今や埋立地だらけ

赤で囲まれた部分が、現在「佃・石川島」といった名称で呼ばれるエリア。

 

そして、青で囲まれた部分が「月島」と呼ばれるエリアです。(町丁目的には少し違います)

 

現在では周囲の埋め立てが進んでいるため、ほとんど陸続きに見えます。特に佃島と石川島は、ほとんど同じ島に見えますよね。

 

 

しかし、元々はこんな感じだったらしいのです。

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佃島ちっちゃい!!

https://labs.mapfan.com/etc/kochizu/より)

 

古地図にある「小橋」というのは現在でも「佃小橋」として残っており、水路で囲まれた200m四方の小さなエリアが、もともとの「佃島」だったということがわかりますね。

 

古地図で見れば、石川島と佃島が別の島であることは明らかです。ちなみに、佃島と小橋でつながっている東側の島は「新佃島」とも呼ばれるみたい。

 

 

このうち「石川島」は、江戸時代に入る頃にはすでに存在していたそうな。

 

 

一方の佃島」が誕生したのは、1645年のことと言われております。住吉神社が創建される1年前ってことになりますね。

 

 

関西圏の人はご存じかもしれませんが、もともと「佃」という地名は大阪の西端にあります。大阪市兵庫県尼崎市の県境・市境を流れる神崎川の中洲があり、ここの地名が「佃」と言うのです。

 

 

戦国時代末期、徳川家康が上洛した際、周辺にある住吉神社などに参詣していたそうで、その際に佃の漁民たちが神崎川を越えるための渡し舟を出していました。そんなご縁もあって、家康は大阪・佃の住民を大切にしていたみたい。

 

そして家康と大阪・佃の住民の関係を決定づけたのが、1582年の「本能寺の変と言われています。

 

どゆこと?

 

 

大河ドラマも話題ですが、本能寺の変と言えば「明智光秀の謀反によって、京都・本能寺で織田信長が自刃した事件」というイメージですよね?

 

しかし、本能寺の変が発生したその時、家康も同時にピンチを迎えていたそうなんです。

 

 

家康は、信長から「家康ちゃん、接待してあげるから堺においでよ!」というお誘いを受けて、大阪の堺を訪問していました。

 

そこで信長が謀反で自刃した、という知らせを受けます。

 

「このままだと自分も狙われる!」と悟った家康は、何とか自分の居城である岡崎城に戻ろうと考えますが、普通に帰ったとすれば、道中に光秀の軍勢が待ち構えていることはわかっていました。

 

困った家康は、大阪の北側を回り道して帰ることにしたのです。

 

 

ところが…神崎川にさしかかると…

 

「渡し舟がない…もはやこれまで…!!」と絶体絶命のピンチに陥ります。

 

 

そんな時に助け舟を出してくれたのが、いつもの大阪・佃の漁民たちだったというわけ。

 

 

大阪・佃の漁民たちは、家康にとって「命の恩人」になったのですね。

 

 

(3)「佃島」の誕生

数奇なご縁で結ばれた、大阪・佃の漁民と家康。

 

江戸時代になってからも、佃の漁民たちは何かと家康のサポートを買って出ます。

 

大坂夏の陣の時にも、軍船や魚などを家康に送っていたみたい。

 

 

家康はとても感謝していて、彼らに全国の漁業権を特別に与えました。佃の漁民たちは、毎年江戸に出向いて白魚を献上していたんですって。

 

ただ、毎年魚を献上するために江戸に行くというのは、あまりにも負担が大きい。

 

ということで、ある日佃の住民たちはこう言います。

 

「家康さーん、江戸に俺たちの住むとこ、用意してくんない?大阪から江戸まで魚持ってくの、大変だよ〜。」

 

 

この要望を受けて、家康は江戸の沖合にある小さな干潟を佃の漁民たちに与えます。

 

大阪・佃の漁民の一部がさっそくこの土地に定住し、漁業をはじめました。

 

 

漁民たちは新しい定住地を、故郷からその名をとって「佃島」と名付けたというわけなのです。

 

 

なるほど!

 

 

(4)住吉神社と佃煮の深い関係

1645年に移住してきた漁民たちは、翌年に故郷の守神であった「住吉神社を勧請して創建します。

 

これが「佃煮の日」の由来になった、というお話でしたよね。

 

 

気付いた人もいるかもしれませんが、先ほどご紹介した古地図の中ほどに「住吉社」という文字が見られました。初期から神社があったってことですな。

 

で、この住吉神社に漁民たちがお供えした食物こそが、現在の「佃煮」の原型だと言われているのです。

 

魚のまんまお供えしたら日持ちしないですから、醤油や砂糖で煮て保存が効くようにしていた、というわけ。

 

佃島住吉神社こそが「佃煮」の発祥の地であるという深い関係から、住吉神社創建日が「佃煮の日」と定められましたとさ、ちゃんちゃん。

 

 

2. 東京湾、島の三兄弟「佃島・石川島・月島」

(1)個性あふれる三兄弟

これで「佃島」の歴史については、大体ご理解いただけたのではないかと思います。

 

ところで、冒頭でもお話しした通り、現在の佃島は埋め立てによって拡大しています。石川島とはほとんど陸続きになっていて、南西側には月島がありますよね。

 

水路で隔たれてはいるものの、今となってはほとんど連続したエリアと言って差し支えないでしょう。

 

 

佃島だけでなく、石川島や月島というのもなかなか個性的な島たちです。

 

 

月島と言えば、おそらく関東の人なら「もんじゃ!」と即答するでしょうね。もんじゃ焼きの聖地として有名な月島ですが、東京最初期の埋立地でもあるんです。こういった背景があるからこそ、もんじゃが今でも根付いているとも言えます。

 

月島については、次回お話しすることにしまして…

 

 

石川島は、みなさんご存じでしょうか?

 

 

この島、2つの点で非常に有名です。というか、日本史で必ずやっているはず。

 

  1. 「人足寄場(にんそくよせば)」が置かれていた場所。
  2.  幕末に「石川島造船所」が造られた場所。

 

覚えてない?

 

 

大丈夫です。これから話すんで。笑

 

 

(2)石川島は監獄だった

石川島は2つの点で非常に有名、というお話でしたが、1つずつご説明していきましょう。

 

 

まずは「人足寄場」について。これは日本史で必ず出てきますね。

 

 

人足寄場の正式名称は「加役方人足寄場(かやくかたにんそくよせば)」と言い、一言で表すならば「自立支援施設」のこと。

nihonsi-jiten.com

 

1790年に幕府の自立支援施設として、人足寄場が石川島に置かれたのです。

 

前科者や家のない人たちのために更生プログラムが敷かれていて、治安維持のための施設として機能していたみたい。ただ、いつの間にか刑務所的役割を持つようになっていきます。

 

 

明治時代になってからも、「石川島徒場」「石川島監獄」と名前を変えて残され、最終的には1895年、「巣鴨監獄」(後の巣鴨プリズン、跡地が現在の「池袋サンシャインシティ」)へと移転して廃止となりました。

smtrc.jp

 

かつての石川島は、言うなれば「監獄島」だったわけですね…。

 

 

(2)大企業に名を残す「石川島」

石川島の歴史、2つ目は「石川島造船所」です。

 

 

石川島造船所とは、1853年水戸藩によって造られた大規模な造船所でした。

 

当時、欧米列強の脅威にさらされていた幕府は、「欧米に負けないような船を至急作るんだぁ!!水戸藩、どうにかせい!!」ということで、水戸藩に命じて造船所を造らせたのです。

 

人足寄場だった島の一部が充てられた、と考えれば良さそう。

 

 

明治維新を経た1876年には、実業家・平野富二(ひらのとみじ)が造船所を借り受け、日本初の民営洋式造船所となる「石川島平野造船所」を設立します。

 

 

平野が設立した石川島平野造船所こそが、後の「石川島重工業」「石川島播磨重工業」であり、現在の「IHIとなっているわけです。

 

 

日本を代表する重工業メーカーを産んだ土地が、石川島なんですね!

 

 

 

ちなみに、現在再開発によって東京有数のタワマン街となっている「豊洲」も、ほとんどが石川島播磨の造船工場跡地です。今でもIHIの本社は豊洲に置かれていますね。余談でした。

 

 

 

ということで、今回は「佃煮の日」にかこつけて、佃島・石川島・月島の歴史をお送りしてきました。

 

次回は「月島の歴史」東京湾沿岸埋め立ての歴史」についてご紹介していきます!

 

 

では!!

 

 

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chimon