【2020年2月26日】確定申告の季節到来!日本における税の歴史《前編》
《この記事の文字数:約5,900》
読み応えアリ!
どうも、chimonです。
私ごとですが、人生初の確定申告を済ませてきまして…。
面倒でしたけど「税金のことを知るって大事だな」「源泉徴収で何となくお金を取られてるってのはマズいな」と感じるに至りました。笑
ということで、今日から3日間にかけて「日本における税の歴史」を取り上げていきます!
前編となる今日は、古代(弥生時代〜平安時代)にかけてお送りします。
税制が、いかに権力や政治体制と強く結びついてきたのかが分かります…!
1. 始まりは卑弥呼
世界は置いておいて、日本の税がいつから始まったものなのか、という話。
結論から言うと、何と弥生時代からあったんじゃないかと見られているんですね!
身分の上下の秩序はよく守られ、十分に臣服している。租税、賦役を収め、そのための建物(倉)がたてられ、国々には物資を交易する市があり、大倭に命じて、これを監督させている。
上記は「魏志倭人伝」の一節を引用したもの。「租税」「賦役」といった表現が見られますよね。
この一節は、魏志倭人伝の中で邪馬台国について触れたものでして…
つまり、日本初の税は卑弥呼の時代に課せられていたものと考えられるわけですね!
卑弥呼についてはこちらの記事もどうぞ!
himekuri-nippon.hatenablog.com
種もみや絹織物といったものを租税として貢ぎ、労働力を提供(賦役)していたようです。
こうした税金がどのように使われていたのかは謎ですけどね!!
2. 本ブログの主要キャスト「律令制」
(1)やっぱりお前らか、大化の改新と大宝律令
卑弥呼の時代もそうですが、7世紀前半までは基本的に「私地私民制」。
大和政権が力を持ち始めていたとは言え、各地の有力豪族を束ねる存在でしかありませんでした。
土地や人民は、その地域を支配する有力豪族の私有物だったんですね。
ただ、これに「待て!」をかける事態が発生します。
それが「蒸しご飯」でおなじみ(?)、645年の「大化の改新」です。
大化の改新は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の第38代天智天皇)が、中国の制度に倣って「律令制」の導入を目指した政治改革。
ここら辺の話は、こちらの記事を参照してください!
himekuri-nippon.hatenablog.com
なぜ律令制を導入しようとしたかと言えば、天皇(当時はまだ「大王(おおきみ)」)中心の中央集権体制を築くため。
となると、私地私民制じゃダメなんです。有力豪族の権力が大きくなっちゃうからね!
ってことで、土地や人民は国のものという「公地公民制」への転換が図られることになりました。
この方針は、第40代天武天皇の時代に具現化されていくのでした。
himekuri-nippon.hatenablog.com
具体的には「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」が固まっていきます。
日本史の授業を思い出して、頭が痛くなっている人も大丈夫!chimonも忘れてたから!笑
この班田収授法、簡単に言うと「国の所有物である田んぼを人民に与えるから、耕して収穫した米の一部を税金として国に納めてね!ただ、死んだら田んぼは国に返してね。」という制度。
与えられる土地としては、人民の性別や身分によって定められた一定の田んぼ=口分田(くぶんでん)や、役人の位によって与えられる位田(いでん)などがありました。
口分田は、収穫した米の3%を税金として納めるよう決められていたようです。
班田収授法は、天武天皇時代に構想された「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」、そして701年の「大宝律令」でひとまず完成を迎えました。
(2)租庸調
当時の税金は「租庸調」という仕組み。
先ほどの班田収授法によって納税されるのは、このうちの「租」にあたるもの。田租(でんそ)とも呼ばれ、その名の通り米で納税されました。
「庸」はもともと労役を課すものですが、代わりに一定量の布を納めるということになっていました。
「調」は、麻や絹といった布製品や地方の特産品を納める税。調と言えば、地域によって海苔などの海藻を納める地域もあったってお話をしましたね!
himekuri-nippon.hatenablog.com
このほかに「雑徭(ぞうよう)」と言って、60日間の労働義務を課す税金もありました。
うん。普通に考えて、厳しい!笑
(3)見えてた、この展開。
さあ、このように始まった班田収授法。
しばらくすると、ある問題が発生します。
農民、やる気ガタ落ち。
だって、口分田を一生懸命耕したって、自分が死んだら国に取り上げられちゃうんです。
おまけに、人口増加へ対応するため「農民たちよ!新しい田んぼを開墾しろ!」なんて言ったものの、農民的には「開墾したって国に取り上げられちゃうんでしょ…嫌だわ。」ってなるのは当然。
さらに、農民、やる気ガタ落ち。笑
税金の厳しさも相まって、農民、逃亡。笑
こんなんだからどうにもならん!ということで、723年「三世一身法(さんぜいっしんのほう)」が出されます。
字を見ると想像つきますが、「新しく開墾した田んぼだったら三世代まで私有OKだよ!」ってこと。
そして、内容以上に想像つきますが、ちっとも農民のやる気は復活しません。
「だって、孫までしか残せないんでしょ。また国に取り上げられちゃうんでしょ…嫌だわ。」
読めてたよ、この展開!笑
結果、743年に「墾田永年私財法」が発布されます。
食料を増産するため、「新しく開墾した田んぼだったら、永久に私有OKだよ!」って見直したんですね。
ただ、この法律の制定が、税金制度や土地所有制度を大きく揺るがすことになっていきます…。
3. 金は政治を牛耳る
(1)金持ちはアンテナ高め
農民のやる気復活を目指した墾田永年私財法。
しかし、実際にめちゃめちゃ反応したのは金持ちでした。笑
資本力のある貴族や寺社、かつての豪族たちが「私有地になるならじゃんじゃん開墾しようぜ!」ってなわけで、私有地をどんどん増やしていったんですね。
こうして新たに開墾された私有地のことを「自墾地系荘園(じこんちけいしょうえん)」と言います。
さらに、「もうやってらんねぇよ!」と逃げ出していた農民たちを労働力として囲い込みました。
ただ、この荘園は納税義務がある田んぼ。
田租を納める義務のある田んぼのことを「輸租田(ゆそでん)」と呼びます。
私有地にしたところで税負担が増えるだけ、ということで10世紀には大きく衰退したそう。
(2)班田収授法、あっけなく崩壊
荘園の誕生とともに、もう一個大きな変化が起こりました。
それは律令制の根幹とも言われる班田収授法が、10世紀初頭に崩壊したこと。
ここまでの流れを考えてみりゃ、当たり前です。
- 人口増加に伴い、田んぼを増やそうとする。
- 農民逃げる。
- 新しい土地は私有認める。
- 田んぼ増やせない。
というか、班田収授法の元になった唐の「均田制」という制度も、780年に立ち行かなくなってるんですよね…。笑
元になった制度がすでに風前の灯だったのに、日本へそのまま輸入したということ自体、無理があったんじゃ…?
(3)「特権」って不気味な響き
班田収授法が崩壊したわけですが、実は税金の徴収対象になっていなかった田んぼがありました。
それが、寺社が所有していた寺田・神田。
760年前後に「公田化」していたそうな。国に所属する田んぼだから、寺社所有だけど税金が課せられない「不輸租田」でした。
一方、寺社が後から開墾した田んぼは徴税対象。
寺社は「何でだよ!後から開墾したのも免税にして〜な!」と主張し、結果的に後から開墾した田んぼも不輸権(ふゆのけん:免税権)を認められることに。
言わば朝廷公認の免税田んぼ。これを「官省符荘(かんしょうふしょう)」と言います。
官省符荘として認められたのは、寺社が保有する田んぼだけではありません。
ここで、読者の皆さんに問題です!
Q:班田収授法が崩壊すると、国の税収はどうなるでしょうか?
A:下がる。
大正解!!笑
そりゃそうだ。
ということで、朝廷は皇族や貴族へのお給料を支払えなくなっちゃうのです。
給料が支払えない朝廷がどうしたか。
「お給料あげられない代わりに、荘園からの徴税やめるね!」
こうなったわけです。笑
まあ、当時の有力貴族が免税を迫ったというのもあるようですが、こんな悲しい事情もあって、有力貴族の荘園も不輸権を持った官省符荘になっていきました。
4. 国司様のお通りじゃ!
班田収授法が衰退する中で、強大な権力を手にしたのが「国司」でした。
国司っていうのは、地方に出向いて税制の根幹となる戸籍の作成や田んぼの班給、そして税に関する業務を担っていたお役人のこと。
大宝律令によって、地方行政は国・郡・里(こくぐんり)という三段構造の組織になっていました。
一番上の国のトップが国司。
その下の郡のトップは郡司と言うのですが、これは地方豪族出身の人物が就いていた模様。
そうなると、朝廷的には中央から派遣している国司に全幅の信頼を置くことになりますわな。
そして、班田収授法からなる税制度が崩壊すると、全幅の信頼を置く国司に地方の徴税を任せるようになるのです。
はい、質問です。
もし、あなたが国司だったらどうしますか?
ですよね〜、税金取りまくって、権力振りかざしますよねー!笑
私はそんなことしませんよ。
ちなみに税金を取りまくるだけじゃなく、場合によっては国司としての任期中だけ、不輸権を認める「国免荘(こくめんのしょう)」を認めることも多々ありました。
これを認めて、自分が任された領地内にある有力貴族の荘園を免税としたんです。
何でだと思います?
国司は4〜6年という任期があって、任期終わりに審査があったらしいのです。
この審査の結果次第で、その後京で出世できるかが決まる。
審査員は、中央の有力貴族…。
読めましたよね?笑
そう、有力貴族の荘園を免税にすることで、自分の審査を有利に運ぼうとしたのです。
税金を自分の出世の道具に使うとは…恐ろしい。
5. どんだけ税金嫌やねんって話
(1)税金って何だっけ?
ここまでは、有力貴族や寺社における荘園の話。
ちょっと視点を変えてみましょう。
班田収授法が崩壊すると、それまでの口分田ってどうなったんでしょう?
答えは簡単。耕す人がいないから、荒れます。笑
そんな田んぼに、有力な百姓たちが目をつけます。
「荒れた田んぼを俺らの手で復活させれば、領地拡大できるじゃん!!」ということで、有力農民が領地開発を進めていきます。
このような領地拡大した有力百姓のことを「開発領主」と呼びました。
開発領主たちは領地を拡大するのですが、大きな障害となったのが国司の存在。
国司だって黙っちゃいませんから、「税金じゃーーーーー!!」と言わんばかりに課税を目論みます。
開発領主たちは国司が課す重い税金から逃れるため、ある策を取るのでした。
その策というのが、中央の貴族や寺社に開発した田んぼを寄進して免税してもらう、というもの!
要は、国司が税金を取れない権力者の傘の下に入って、脱税を図ったということ。笑
やってること、滅茶苦茶。笑
不輸権だけじゃなくて、どうせ税金取らないならお役人が土地を調査する必要ないでしょ!ってことで、不入権まで認めさせちゃいます。
開発領主が土地を寄進した貴族や寺社のことを「領家(りょうけ)」と言い、領家は開発領主から税収をもらう代わりに、開発領主による土地の支配権を認めました。
領家に寄進された土地は「寄進地系荘園」と呼ばれます。
こうなると、もはや「税金って何のためにあるんだっけ?」って感じになります…。
(2)あー、もう、泥沼。
税金入らないですからね!
ってことで、国司は事あるごとに荘園を「公領」化しようと試みます。
じゃあ次に困るのは誰でしょう?
寄進を受けた領家ですね。笑
開発領主から寄進を受けた領家ですが、土地の実効支配権を認めた開発領主と対立するようになっていました。
おまけに国司からは「荘園を公領化してやる圧力」をかけられて大ピンチ!
困った領家たちは、さらに強大な権力を持つ摂関家や大寺社などに土地を寄進したのです。
寄進を受けた摂関家や大寺社を「本家(ほんけ)」と言います。
!!!!
つまり…
開発領主 → 領家 → 本家
という、ややこしい重層支配構造が出来ちゃったんですね。
こりゃ泥沼だ。笑
(3)国司、お前もか。
もっとややこしいのが、この時代、荘園と公領がだいたい半々くらいだったということ。
(実質的に)国司の持つ公領も、まだちゃんとあったんですね。
で、国司は(実質自分のものにできる)公領を守りたいと考えます。
結果として、開発領主の一部を郡司や里長(里のトップ)に任命して公領を支配させ、自分に税金を納めさせるという支配体系を生み出しました。
あれ?笑
どっかで聞いたような話。
その上、荘園の増加で朝廷が上級貴族に給与を支払えなくなったため、公領における国司の任命権と徴税権を上級貴族に与えました。
んんん!!!!!?????
これを図にしてみましょう。
郡司・里長 → 国司 → 上級貴族
完全一致。笑
荘園で見られた重層支配が公領でも…。
荘園と公領の両方で見られるようになった、重層的土地支配構造のことを「職(しき)の体系」と呼びます。
いや、ホント、どんだけ税金払いたくないんや。笑
つーか、そんなに逃れたい税金って、そもそも制度的にどうなんや。
(4)武士の時代へつづく
こんな美味しい蜜を生み出す荘園を守るため、農民たちは自ら武装するようになります。
これこそが「武士」の誕生。
さらに平安時代後半になると、本来は任期後に京へ戻るはずの国司が地方に居残るようになります。
そりゃあ、公領を実質私物化して美味しい思いできるんだもの。
戻りたくないよね。
国司は中央から派遣された有力貴族。
農民たちが武装して作った武士団は、有力貴族出身の彼らを棟梁としてまとまるようになります。
武士団の棟梁になった最有力貴族が源氏だったのでした。
そして、時代は鎌倉時代へ…。
《中編へ続く》
himekuri-nippon.hatenablog.com
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chimon
(参考資料)
・河合敦著『マンガでわかる日本史』池田書店, 2012
(参考WEB)
・日本税理士連合会「大学生向け講義テキスト−歴史版−」
※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。