【2020年1月11日】卑弥呼の邪馬台国はどこにあった?〜九州説と畿内説の謎〜
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どうも、chimonです。
超大作「伊勢神宮」の疲れもあり、昨日はお休みいただきましたが、今日は趣向を変えていきたいと思います。
超大作をまだお読みで無い方は、前編から順番にどうぞ。笑
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《目次》
1. 邪馬台国に関する新発見
タイトルにもある通り、今回のテーマは「卑弥呼と邪馬台国」なんですが…なぜこのテーマにしたかと言えば、正月にこんなニュースが載っていたからなんです。
佐賀新聞Live 2020年1月3日記事(2020年1月9日閲覧)
内容を簡単にまとめると…
大分県日田市にあった「ダンワラ古墳」から出土したと言われる国宝「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」について、中国の考古学者が「邪馬台国の女王・卑弥呼が魏の皇帝から授かったと伝わる、銅鏡百枚のうちの一つである可能性が高い」という見解を明らかにした。
といった感じです。
ふむふむ…「で?」となった人も多いかもしれませんが、これは歴史上非常に重要な発見かもしれないんです。
2. 邪馬台国ってそもそも何だっけ?
何が大発見かということを知るためには、前提として邪馬台国のことを確認しておく必要がありますよね。
日本史の授業の復習みたいになりますが…
邪馬台国とは2〜3世紀ごろ、日本列島に存在していたと考えられている国です。中国の歴史書「三国志」の中にある「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」にその名が登場しており、女王・卑弥呼が治めていたと記されています。
魏志倭人伝では他にも「70〜80年ほど男子の王を立てていたが争いが絶えなかったため、卑弥呼という女王を立てると国内が安定した」「卑弥呼は神がかった霊力を持っていて、政治は弟が補佐していた」などとも書かれていて、シャーマン(呪術者)だったんじゃないかという説も有名ですね。
ところが、一つ大きな問題があるんです。
それが「邪馬台国はどこにあったか」という問題。日本史の教科書にも書かれている話なので、覚えている人も多いかもしれません。
いわゆる「畿内説」と「九州説」と言われる説が、一般的に唱えられています。
近畿地方にあったのか、はたまた九州にあったのか、まだ結論は出ていないのです。
3. これが重要な発見と言えるワケ
で、冒頭の記事の内容が「大発見」と言える理由についてお話ししましょう。
実は、そもそもこの鏡、前から「九州説」の論拠の一つとされてきたんですね。
たとえば、こんな地方ニュース記事がありました。
同様に国内で発掘された鏡の中で「三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)」と呼ばれる銅鏡が、魏から卑弥呼に下賜(かし:高貴な身分の人が身分の低い人へ金品を与えること)した銅鏡百枚の一つ、という説もかつてありました。
しかし、この銅鏡は国内で500面以上見つかっているのに、中国本土で1面も発掘されておらず…
こうなると恐らく国内製だろう、という見解が一般的になっています。
(王に服属する臣下の首長たちが、王に捧げ物として送ったのが銅鏡なのではないかとも考えられるそう)
そうした中で、「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が魏からもたらされたものの可能性が高いということになると、ただでさえ貴重な鏡が九州・大分に埋まっていたということになり…
卑弥呼って九州にいたんじゃね?!という話になるワケですね。
先ほども書きましたが、邪馬台国の歴史を紐解くには「魏志倭人伝」の記録に頼らざるを得ないわけで、下賜された銅鏡の行方を調べることは、古来日本の勢力図を明らかにすることにも繋がると考えられます。
本来こういった過去のことは古事記や日本書記、いわゆる「記紀(きき)」に書かれているべきことなのですが、残念ながら記紀には、邪馬台国や卑弥呼に関する記述は一切ありません。
どちらも壬申の乱で勝利し天皇に即位した、第40代天武天皇によって編纂が命じられたと言われており、古事記は「天皇家の歴史を知らしめるための国内向け歴史書」、日本書紀は「天皇家が日本を治めている正当性を海外に向けて示す国外向け歴史書」とされます。
ここに、邪馬台国や卑弥呼の記述がないということは…つまり…?
鏡が一つ出てきたからといって、確実に場所が定まる話でもないし、何より宮内庁管轄下の古墳などは考古学的な調査が許されていない場合が多く、当時の様子を探ろうにも調査できないというジレンマがあるようですが。
「皇室にとって不都合な事実が明らかになる危険性があるから、発掘を認めないんじゃないの?」
っていう、日本史最大のミステリー…。
気になる。笑
4. 天皇家と卑弥呼の関係…?
そんな卑弥呼は、天皇家の血筋なんじゃないかという説もあります。
などなど…
江戸時代までは、2つ目の神功皇后説が唱えられていたそうで。
神功皇后とは、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后とされる人物です。
仲哀天皇は、当時九州地方で力を持っていた熊襲(くまそ)征伐を目指しますが、ある時神功皇后に神憑り(かみがかり)した天照大御神から、「熊襲の前に新羅(しらぎ)を征伐せよ」との神託を受けました。
新羅は、当時の朝鮮にあった国ですね。
ところが、仲哀天皇は神託に背き、熊襲征伐を続けようとします。すると仲哀天皇は急死してしまったのです。
「神託に背くと大変なことになる」ということで、天皇に代わり政治を司ることとなった神功皇后は、自ら軍を率いて朝鮮を平定した…とされています。
神憑りとか、女性が指導者となり国を率いたとか、卑弥呼に共通する点はありますが…そもそも卑弥呼はそんなに軍事的な側面は明らかでないんですよね。
しかも、卑弥呼は「生涯独身」「亡くなった後、新たに二人目の女王(台与:トヨ)が擁立された」ってことになってるし、矛盾だらけ。
ってことで、現在では否定される論調が強いです。
1つ目の天照大御神説も、なかなか信ぴょう性は怪しい。個人的には結構好きですけど。笑
魏志倭人伝から考えると、卑弥呼は西暦240年代に亡くなったと見られます。
実は天文学の研究により、247年と248年に西日本(特に九州)で皆既日食が起こった可能性が高いことが明らかになっていて、これと卑弥呼の死が合わさってできたのが「天照大御神の天岩戸隠れ(あまのいわとがくれ)説話」なんじゃないかという説。
「天岩戸隠れ説話」については、この記事をどうぞ!
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ただ、天岩戸隠れのような皆既日食神話は、世界各地で共通に見られるそうで…それはこじつけでしょ、って論調も多いのが事実です。
(この説が事実だとしたら、実はさっきの皆既日食ってのは、近畿地方にあたる地域では部分日食でしかなかったと推測されているので…九州説が一気に有力になるんですけどね…)
結局、邪馬台国と大和政権は一緒だったのか、それとも敵対勢力だったのかっていうのは、未だに謎なんですね。
個人的には、邪馬台国も大和政権(現天皇家)と関係があったんじゃないか、って感じるんですけどね。真実はわかりませんが。
やっぱり古事記の「天孫降臨」説話で、邇邇芸命(ニニギノミコト)が九州の高千穂に降り立ったというのは、大和政権のルーツが九州にあることに他ならない気がして仕方ない…。
古事記については、「超意訳!中学生でも読める古事記」シリーズを連載しておりますので、興味があればぜひ。
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いかんせん、謎が謎を呼ぶ分野なので答えが出なくて恐縮ですが、皆さんも興味があれば是非色々調べてみてください!
では。
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chimon