【2020年2月12日】「日本」という国号と天武天皇《後編》
《この記事の文字数:約3,900》
ちょっと読み応えアリ

どうも、chimonです。
昨日からお送りしている「日本」という国号の成り立ちを探るシリーズ!
今日は後編をお送りしていきます。
前編をまだ読んでいない人はこちらからどうぞ。
himekuri-nippon.hatenablog.com
3. 隣の火事
(1)朝鮮で大問題発生
前編で、7世紀中頃の日本が「隣の強大国・中国にいつ侵略されるか分からない、ドキドキ臨戦モード」だったというお話をしました。
これには、朝鮮半島にまつわる背景があったのです。
朝鮮半島は紀元前1世紀ごろから、新羅・百済・高句麗という三国時代にありました。
中でも、倭と関係が深かったのが百済。仏教も百済から伝来した、と言われていますよね。
ところが、7世紀になるとこの状況に変化が生じ始めます。
発端になったのが、642年に百済・高句麗の連合軍が新羅に攻め入り、新羅の領土を一部奪ったこと。
両国に挟まれ厳しい状況にあった新羅は、お近くの大国・唐に支援を求めたのです。
一度は唐から支援を断られますが、国内を唐化する政策をとって実質的な属国となることで、ついに唐の支援を取り付けました。
朝鮮半島に唐の支配力が及び始めたことは、三国時代のパワーバランスを大きく崩すきっかけになります。
659年に唐は百済への出兵計画を立て、660年には唐・新羅の軍事同盟が締結されます。
この動きは、遣唐使を通じて大和政権にも伝えられたのです。
当時の倭国最高権力者だった中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)からすれば、これはとんでもない事態。
古くからの友好国である百済が、同じく友好国だった唐に攻められようとしているわけですから…どっちにつくのかという重大な決断を迫られます。
さらに、どちらにせよ朝鮮が唐の影響下に入れば、次は倭国に影響力を行使しようとすることは目に見えていました。
だからこそ、前編でもお話しした通り、中央集権化が急務となったわけですね。
(2)唐は強かった…
唐は、最初に高句麗へ攻め込みますが、これは失敗。
改めて「じゃあ百済から攻めますか!」ということで、新羅を支援する形で百済を攻撃。
百済は660年に滅亡してしまいました。
唐軍が旧百済領から引き上げると、滅亡した旧百済の生き残り達が「百済復興」を掲げて反乱を起こします。
この時に支援を求めたのが、古くからの同盟国だった倭国でした。
倭国としては、百済を復興させることは美味しいことだらけのように思えます。
朝鮮との交易ルートを確保できる上に、復興後の百済を通じて朝鮮半島での影響力をつけることができますから!
こうして663年に起こったのが、かの有名な「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」。
やっぱり唐・新羅連合軍は強かった…。笑
(3)さあ、胡麻をすろう
「ヤバい!唐のヤツ、絶対次は倭国に攻めてくるじゃん!!」ってなります。
そこで、大きく分けて3つの施策を取ります。
特に注目なのが、2つ目と3つ目。
白村江の戦いから5年後の668年には、高句麗も唐・新羅連合軍によって滅ぼされ、ついに朝鮮半島は新羅によって統一されることとなります。
と言っても、新羅は実質唐の属国なわけで…
倭国からすれば、唐は、もはや手のつけられないジャイアンみたいな存在。
こりゃ仲良くするわけしかねーわ、ってことになります。
実際の記録でも、665年・(667年:唐までたどり着いたかは定かでない)・669年と相次いで遣唐使が派遣されており、当時の倭国の危機感が伝わってきますよね。
ちなみに、ここで面白いのが、唐と仲良くする施策の裏で新羅とも手を組んだという点。
668年になって中大兄皇子は、ようやく第38代天智天皇として即位したわけですが、同年に遣新羅使を派遣して新羅との和平を結んでいます。
新羅は自国の危機から守ってもらうために唐と組んだわけですが、いざ朝鮮半島を統一すると、唐が支配権を行使しようとしてきました。
新羅は唐の好きにはさせまいと反乱を起こします。
つまり、新羅も倭国も「唐を牽制したい」という共通した目的があったというわけ。
まさに「昨日の敵は今日の友」。
で、今回のメインが3つ目というわけですね。
4. 律令体制と壬申の乱
(1)まずは敵をパクれ
中央集権化の中心とされたのが「律令制」の導入でした。
律令というのは、今で言う刑法にあたる「律」・行政法などにあたる「令」からなる法体系であり、これを基にした支配制度を「律令制」と呼ぶわけですね。
ただ、この制度も元を辿れば隋・唐で確立されたものでして…笑
唐を牽制するために、唐生まれの制度をパクるという、ある意味でとても合理的なやり方。
天智天皇が律令制の実現のために定めたものとして有名なのが、庚午年籍(こうごねんじゃく)です。
日本初の戸籍と言われています。
戸籍って、律令国家にとってはとても大切なもの。
どこに誰が住んでいるかということは、つまり、この土地は誰のものか、この土地で採れる作物は誰のものか、ということに繋がります。
要するに、戸籍があることで国民から確実に徴税できるということ!
強い国家を作るためには、戸籍が欠かせないのです。
(ちなみに、天智天皇が白村江の戦いに出兵してボロ負けしたことにビビって、莫大な防衛費を捻出するために急いで整備したという事情もあるみたい…。)
(2)壬申の乱
律令制度の整備を急いだ天智天皇でしたが、671年に崩御してしまいます。
すると、天智天皇の皇子だった大友皇子(おおとものおうじ)が、第39代弘文天皇(こうぶんてんのう)として即位しました。
※弘文天皇については、長らく天皇としての即位が認められていなかった経緯があり、現在でも即位したのかどうか説が分かれるところ。明治に入った1870年になって、天皇号が認められたという幻の天皇。
これを美味しく思わなかったのが、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)でした。
もともと天智天皇は、大海人皇子に皇位を継承する予定だったようなのですが、息子が可愛かったんでしょうね…強引に大友皇子を後継者として立て、大海人皇子を吉野に追放してしまったのです。
天智天皇の崩御後、大海人皇子は挙兵し、弘文天皇を打倒すべく立ち上がりました。
これが、日本古代史上最大の騒乱とも言われる「壬申の乱」!
多くの氏族を巻き込んだ大騒乱は、最終的に大海人皇子の大勝利に終わります。
そして、勝利した大海人皇子は第40代天武天皇として即位しました。
5. 「日本」という国号と天武天皇
(1)「日本」誕生!
こうして修羅場をくぐり抜け即位した、天武天皇。
天智天皇時代から続く対外的な緊張と合わせ、壬申の乱という騒乱で勝利した天皇ということもあり、国内的にも天皇の実権を強める必要がありました。
このような背景から、天武天皇は現在まで残る数多くの施策を実行したのです。
その1つこそが、前後編にわたってお伝えしてきた本シリーズの主題、「日本」という国号の制定と言われています。
ここまで長かった!!!笑
唐や新羅との友好関係を築きつつ、大国に対して自らの国の存在を知らしめる目的で、それまで使っていた大陸由来の「倭国」という名から改め、自国に由来する「日本」という国号を定めたというわけ。
さらに、ここまで散々使ってきた「天皇」という称号も、天武天皇が最初に名乗ったと言われています。
と言うのも、以前の天皇というのは「有力豪族を束ねる王」ということで「大王(おおきみ)」と呼ばれていました。
天武天皇は、唐の皇帝と対等な王であるということを示し、国内的にも神格化された絶対的な王であるということを示すために「天皇」と称したのです。
(2)あれもこれも、天武天皇
メインテーマから外れるので、駆け足でお送りしますが…
天武天皇のやったことは他にもたくさんあります。
簡単に箇条書きで表すと…
- 「古事記」「日本書紀」の編纂を命じた。
- 天皇を頂点とする新たな身分制度「八色の姓(やくさのかばね)」を制定。
- 日本初の体系的律令とされる「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を制定。
- 日本初の通貨(諸説あり)「富本銭(ふほんせん)」の鋳造。
- 神祇官の設置、大嘗祭の新設、宮中祭祀の整備等、天皇を祭司とする国家神道体系の確立。
- 神宮の式年遷宮を開始。伊勢の神宮を日本最高格の神社と位置付ける道筋を作った。
- 仏教を保護した。
こうやって見るだけでも、天武天皇が後の日本に及ぼした影響の大きさを感じますよね。
なお、続く第41代持統天皇は、天武天皇の皇后だった人物。天武天皇が生前にやり残したことを継いで実現しました。
藤原京への遷都、大宝律令の完成、記紀の編纂など、後の時代に行われた施策の礎を築いたのも天武天皇と言えるでしょう。
6. まとめ
昨日・今日と2日間に渡り、「日本」という国号の成立背景について深掘りしてきました。
天智天皇から天武天皇への流れを見ていくと、緩やかな豪族同士の繋がりで形成された島国「倭国」から、天皇を中心とした中央集権国家「日本」へと変化していく様子が明らかになります。
その中で天武天皇という人物は、「日本」初の「天皇」であり、現在に至る日本の根幹を作ったとも言えるのです。
「日本」って面白い国だなあ、なんて改めて思ってもらえたなら嬉しい限り。
では!
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chimon
(参考文献)
・山折哲雄監修、田中治郎著『新版 面白いほどよくわかる日本の神様』日本文芸社 , 2013
※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。
