【2020年2月13日】日本の苗字は30万種類?!多すぎる苗字の歴史!
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読み応えアリ!

どうも、chimonです。
何か良いネタはないかな〜と色々見ていたところ、今日2月13日が「苗字制定記念日」であることが発覚!
「何だそれ?」と調べ始めたら、これがなかなか面白いのです。
そこで今回は、日本における苗字の歴史と謎に迫っていきます。
1. 苗字制定記念日って?
(1)苗字を名乗れるありがたさ
そもそも「苗字制定記念日」って何やねん、というお話から。
苗字制定記念日とは、明治8(1875)年2月13日、明治政府から「平民苗字必称義務令」が発布されたことを記念して定められたもの。
へいみんみょうじひっしょうぎむれい…?
簡単に言うと「これからは国民全員が苗字を名乗らなきゃダメ!」というのを定めた法令なのです。
ピンと来ないですよね、そうですよね。笑
そう、今の私達からすると全然ピンと来ない話なのですが、この法令が出るまで(正しくは1870年に「平民苗字許可令」が出るまで)は、一般庶民は苗字を名乗ることが許されていませんでした。
ここで勘違いしてはいけないのが、「公の場で苗字を名乗ってはいけない」ということであって、「苗字を持っていなかったわけではない」ということ!
後でも解説しますが、多くの農民は苗字を持ちつつ、公の場で名乗ることは禁じられていました。
だから、今こうして当たり前のように我々が苗字を名乗れるのは、とーってもありがたいことなんですね。
(2)苗字名乗れないって、どんな状態?
となると、苗字が名乗れなかった時代の人々は、どうやって名前を名乗ってたんだって疑問に思いませんか?
その答えは簡単、名乗れない人は下の名前だけで呼び合ってたというだけのこと。笑
考えてみれば、江戸時代の時代劇なんか見てると「〇〇ちゃん」みたいな感じで、名前だけで呼んでいるような。
これは有名かもしれませんが「苗字帯刀」という、武家政治における原則から来ているものです。
苗字帯刀の意味を簡単に言い表すならば、「苗字を名乗ることと刀を持つこと」。
江戸時代の後期、1801年に「苗字帯刀の禁令」が出され、幕府によって正式に「農民が苗字を公の場で名乗ること」が禁じられました。
まあ刀は何となく分かるけど、なぜ苗字を特権にしたのか、というのがポイント。
(3)日本の「家」制度
武士が苗字を特権としたのは、「家」制度に要因がありました。
今でも冠婚葬祭などでは「〇〇家」って表現を使いますよね。
古来の家制度は、父から嫡男へと家産(財産)・家名(苗字)・家業(職業)をセットで相続していくというもの。
これは半永久的に継続し、一族の地位を保証するものだったわけです。
武士は特権階級として、その地位も相続されます。武士の子は武士なわけで、原則地位は揺るがない。
地位も相続するということ自体が武士の特権であったことから、その中心にある苗字の使用というのも特権として考えられていたのですね。
じゃあ何で苗字がそんな大事なものだったのか、というのを紐解こうとすると、苗字の歴史にどっぷり浸かることになるのです…笑
2. 苗字≠姓≠氏?!
(1)氏(うじ)と姓(かばね)
現在では、「苗字(名字)」「氏」「姓」というのは同じ意味で使われます。
しかし、元々は全く別の性格を持つものでした。
「氏(うじ)」は、血縁関係のある集団を表す呼び名。
縄文後期〜弥生時代にかけ、徐々に農耕技術が発展し、血縁関係のあるもの同士で緩やかな共同体が営まれるようになります。
こうした流れの中で、氏族(家族より大きく部族より小さい、血縁関係で繋がった一族)が生まれ、それを表す呼び名として「氏」が誕生しました。
対する「姓(かばね)」は、大王(おおきみ)から臣下に与えられる称号のようなもの。
爵位に近いかもしれませんね。
古代においても似たような仕組みはあったようですが、大王による支配体系に組み込まれたのは、第13代成務天皇の時代と言われています。(実在したかは不明)
その後、第19代允恭天皇の時代に臣(おみ)・連(むらじ)といった、何となく聞き馴染みのある姓が制定されました。
氏と姓の違いについて、進研ゼミ高校講座がめっちゃ分かりやすかったので載せておきますね。笑
要約すると、氏は「一つの豪族で支配するグループの名称」で、姓は「大王によって豪族に与えられた地位」といったところ。
じゃあ「苗字」って何ぞや?という話ですが、この時代、苗字は存在していません。
苗字が現れるのは、もうちょっと後の話…
ちなみに、「名字」と「苗字」っていう2種類の漢字も、違いがあるみたいですよ、奥さん!
そこまで突っ込むと、永遠に話が終わらないのでこちらをご参照ください。笑
(2)八色の姓
氏で血族関係を表し、姓で階級を表す氏姓制度。
それは、ヤマト政権が有力豪族たちを支配するために生まれた制度と言えます。
ところが、この氏姓制度を大きく変える制度が制定されます。
それが「八色の姓(やくさのかばね)」。
出た!天武天皇!笑
昨日アップした記事で、天武天皇の紹介をしています。
himekuri-nippon.hatenablog.com
八色の姓の何が新しかったかと言うと、それまでにあった臣や連といった姓の上位に、真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰(すくね)といった新たな姓を設けたという点。
天武天皇が中央集権化を図ったことは、上の記事でも触れた通り。
天武天皇は八色の姓を導入し、皇族に豪族よりも上の地位(真人や朝臣など)を与えることで、天皇を中心とした皇族による支配体制を強化する狙いがあったのです。
ただ、何となく想像つきますが…この制度には問題点がありまして…
天皇が姓を授けることができるので、「あ、こいつ、ええ奴!」「お前、言うこと聞いてくれるから、姓やる!」ってな感じで、徐々に姓が乱発する事態になります。
しかも、下の方の姓はもはや意味がないので、「朝臣」姓が溢れかえります。笑
おまけに、天皇家に仕える氏族にどんどん与えられた結果、姓が世襲制になっていくんですね。
世襲制って…もはや「氏」と変わらないやん!!!
ということで、姓と氏の境界が曖昧になっていき、奈良時代には早くも有名無実化したみたいです。
奈良時代には、って。早すぎないかい?笑
ただ、天皇から与えられる称号という意味で、姓は後世でも重んじられています。
ま、ほとんど朝臣だけど。笑
(3)ある意味、時代は繰り返す
そして、苗字が生まれたのは平安時代後期のことだそう。
この理由がまた面白い。
実は、苗字の由来には2系統あって、それぞれが自然発生的に同時期に生まれたとみられています。
1つが、貴族における「家名」の誕生。
平安時代になると、源平藤橘(げんぺいとうきつ)と呼ばれる4氏族(源氏・平氏・藤原氏・橘氏)が絶大な権力を握りはじめます。
すると、貴族の中である問題が生じるのです。
「え?お前も藤原?俺も藤原なんだけど。ねー、藤原先輩!」ってなります。笑
そりゃそうだよ。笑
さらに、同じ「藤原」でも地位の格差が生まれるようになり、次第に「藤原」の中でも区別する必要が出てきたんですね。
こうした背景から、主にその人の出身地名を使って「〇〇藤原氏」みたいに区別するようになりました。
当初は一代限りのものだったそうですが、次第に家系で相続されるようになって「家名」となり、苗字へと発展していったのです。
もう1つの源流が、武士における「名字」の誕生。
こちらも似たような話で、武士にしても源平藤橘出身の人が非常に多かった。
武士は土地を警護する役割を持っていたわけで、それぞれの領地を「自分のものだ!」と明確化する必要がありました。
ところが…
「あそこは源さんの土地だ!あっちもだ!ってか、俺も源だ!」ってなります。
だーかーらー、そりゃそうだよ。笑
ということで、こちらも自然に領地の名前を冠して区別するようになり、苗字へと発展していくのです。
よく考えてみると、そもそも古代の氏姓制度では、姓によって身分を規定し、氏で血縁関係を規定していたわけですよね?
ところが、姓も世襲になって氏との違いが曖昧になって…そしたら、氏の中で身分や生まれを区別する必要が出て…苗字ができて…
って、ただの繰り返しじゃないか!!!笑
歴史は繰り返すのですね。
(4)苗字が特権階級として大切だったワケ
先ほど武士において「名字」が生まれた、という話をしました。
この成り立ちにこそ、苗字が特別視された理由があります。
元々、名字は領地を明確化するために生まれたため、徐々に「領地を支配する一族」を表す名前としての性格を帯びてきたのです。
つまり、苗字を名乗る=支配階級であることを表すようになったんですね。
そう考えると、武士が苗字を特権とみなしていたのも納得。
(5)一般庶民も苗字を持っていた!
武士が苗字を大切にしていたとは言え、一般庶民だって苗字を持っていました。
江戸時代後期から明治初期にかけて公に使えない時期があった、というだけで、農民も一族を表す名前は必要だったはずですからね!
農民にまで苗字が広がったのは、室町時代ごろのことと考えられています。
恐らく貴族や武士が使いはじめて、徐々に下の層にも広がっていったのでしょう。
上流階級との違いは、姓が無いってことでしょうか。
お話しした通り、姓は天皇から授けられる称号のようなものですから、農民にとっては関係のない話。
一方の苗字は、氏族の中で区別するために各々がつけたものなので、元々は農民だろうが何だろうが自由に名乗ることができたわけです。
3. 日本の苗字がアツい
(1)「みなもとのよりとも」と「あしかがたかうじ」
農民階級に苗字が広がるくらいですから、室町時代にはある程度、苗字文化が定着していたと考えられます。
その証拠と言えるのが、見出しにある「源頼朝」と「足利尊氏」の読み方!
これこそが、氏と苗字の違いなのです。
「源」は血縁関係を表す氏であるのに対し、「足利」は支配していた領地からつけられた「名字」。
足利尊氏も、本名は「源尊氏(みなもとのたかうじ)」です。
ここらへんの話は、QuizKnockでも特集されていました。
(2)兵農分離政策
時代は下り、豊臣秀吉が惣無事令を出して天下統一を果たすと、「農民たちは農業に専念してねー」という兵農分離を推進します。
刀狩なんかは、まさにこの流れですね。
兵農分離が徹底されたことは、苗字にも大きな影響を及ぼします。
武士の「名字」は、支配する領地からつけられたものであり、支配階級であることを指す特別なものだったということはお話ししました。
兵農分離によって、この意味合いがより色濃くなったのです。
「武士の皆さんが名乗るものだから、あっしたちは遠慮しときまひょか」と言わんばかりに、農民たちは苗字を公称することを自粛しはじめます。
私的な利用に留めたんですね。
それを念押しする形で、1800年代初頭の「苗字帯刀の禁令」に繋がっていきました。
(3)明治政府の心変わり
明治維新が起きると、すぐに苗字が解禁された…わけではありません!
実際「平民苗字必称義務令」だって1875年発布ですからね。明治維新から少し間が空いています。
どうも、明治政府も当初は苗字の使用を禁じていたみたいなんですね。
しかし、富国強兵をして欧米列強に追いつけ!という考えのもと、近代的な戸籍制度を整備する目的で、現在のような苗字制度が確立されたのです。
同時に、それまでの姓・氏・苗字による「実名と通称の使い分け」を廃止し、名前の一本化を図りました。
近代化っていうのももちろんですが、私の推測では「四民平等」の理念を実現するという目的もあったんだろうと思います。
ここまで見てきた通り、苗字は支配階級を象徴するツールだったとも言えるわけで、全面的な使用を認めることで平等を演出するという意図があったんでしょうね。
(4)日本の苗字多すぎ問題
そんな日本の苗字ですが、一説によると現在では約30万種類あると言われています。
30万…!!!
こちらの記事によると、中国が約6,000、朝鮮は約300だそうですから、日本の多さは際立っています。
おまけに、中国や朝鮮は限られた苗字に人口が集中していて、朝鮮では上位5つの苗字だけで人口の半数を占めるそうな。確かに、金さんだらけのイメージあります。
何でこんなに苗字が増えたのか、という話を最後にしておきましょう。
ここからは推測ですが、家ごとに細かく苗字をつけたからなのではないかと考えています。
日本では中世〜近代にかけて、単独相続が原則でした。
現在は、親が亡くなった場合、子どもが分割して遺産相続しますよね。
ただ、古くは親の遺産は嫡男が相続するのが通例で、次男・三男は相続権を持たずに独立したわけです。
そうなると、相続権を持つ一族から独立した一族(傍流・分家)ということになり、本家と区別する形で、別の苗字を持つといったことがあったのではないか、と。
だからこそ、地名だったり職業だったり、細かく分化した大量の苗字が生まれたと考えられますね。
4. まとめ
はあああああああ…
スゴい文量になってしまいました…読んでくださった皆さん、お疲れ様でした。笑
でも苗字一つでここまで日本史を掘り下げられるって、奥が深いですね!!
皆さんも自分の苗字を改めて噛み締めて、雄大な歴史ロマンに思いを馳せてみては?
では!
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chimon
(参考文献)
・武光誠著『日本人なら知っておきたい日本』育鵬社, 2018
※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。
