【2020年3月13日】意外と知らない北海道の成り立ち《前編》〜青函トンネル開通記念日〜
《この記事の文字数:約5,000》
読み応えアリ!
どうも、chimonです。
32年前の今日、1988年3月13日に当時世界一の長さを誇った海底トンネル「青函トンネル」が開通しました。
鉄道で北海道と本州が結ばれることになったわけです。2016年には北海道新幹線も開通し、近い将来にはスピードアップも予定されています。
ということで、今回は「意外と知らない北海道の成り立ち」について、前後編でお送りします!
新型コロナに負けるな!
1. アイヌモシリ
(1)先住民族アイヌ
北海道の成り立ちと聞いた時、真っ先に思い浮かぶのが「アイヌ民族」ではないでしょうか。
北海道の先住民族で、独自の言語「アイヌ語」を話して、今では数が激減している…
くらいの情報は、結構ご存じの方も多いはず。
ただ、アイヌという民族の成り立ちや民族的な系統というのは、今でも研究しきれていないところがあるようです。
彼らは自分たちが住む場所のことを、「人間の静かなる大地」という意味の「アイヌモシリ」と呼んでいました。
押さえておかなくてはならないのが、アイヌは北海道だけに居住していたわけではないという点。
大まかに分けて、北海道アイヌ・千島アイヌ・樺太アイヌという3系統の民族がいるそう。
そして、アイヌ語には文字がありませんでした。
以前、漢字が伝わる前のやまと言葉には文字がなかったという話をしましたが、正にそれと同じことですね。
himekuri-nippon.hatenablog.com
口承文化だったので、歴史に関する記録が圧倒的に不足しており、細かい歴史がよくわからない、ということのようです。
(2)アイヌはどこからやってきた?
ところで、北海道の成り立ちを知る上では、「アイヌ民族」と「アイヌ文化」それぞれの意味を認識しておく必要があるようです。ややこしや。
どういうことかと言いますと、「アイヌ民族」っていうのは、あくまでも人類学的見地の言葉。要するに、北海道に昔から住んでいた人たちのことを表しています。
それに対して「アイヌ文化」というのは、13世紀頃に成立したと考えられるアイヌ民族固有の文化を指します。
アイヌ民族と言われる人たちは昔からいたけれど、現在私たちが触れることのできるアイヌ文化というのは、さまざまな他民族との交流を経て生まれた文化だということですね。
ふむ。
で、本題のアイヌ民族がどこから来たか、というお話。
正直なところ、先ほども言った通り、諸説あり過ぎてハッキリとしたことはわからないのですが…
一説では、日本列島にいた古いモンゴロイド(モンゴロイドの中でも、細かく分化する前のモンゴロイド)が東北北部〜北海道に定住したのが起源、と言われているみたいです。
だから、旧石器時代や縄文時代の日本人と近い形質を持っているなんて説もある模様。
また現代のアイヌ系、沖縄系の日本人のDNAは、現代の東京の日本人のDNAより少し、縄文人のDNAに近い。
武光誠著『日本人なら知っておきたい日本』P38-40より引用
(3)続縄文時代?!
ここまでの話だと、アイヌ民族と和人(日本民族を指す言葉)は、共通なんじゃないかと思えますよね。
じゃあ2つの民族の差がどこで生まれたか、というのを考えてみると、どうやら縄文時代にルーツがありそうなのです。
縄文時代、日本列島にはアジア各地からモンゴロイド各民族が入ってきました。古来の縄文人と大陸系民族が混血を繰り返した結果、現在の和人が誕生したと言われているんですね。
一方のアイヌ民族。こちらは、恐らく混血度合いが少なかった、あるいは北方からの民族と混血したということが言えそうです。
なぜ混血度合いが少なかったと推測できるかと言えば、先ほどご紹介した通り「ちょっと縄文人に近い」って話があるから。
文化的にも和人とは異なっています。
日本史の教科書だと「縄文→弥生→古墳→飛鳥→奈良…」という時代区分で習いますが、北海道の歴史はちょいと異なります。
北海道の場合「縄文→続縄文→擦文(さつもん)→アイヌ…」ってなるんです。
続!!!
個人的に結構衝撃的だったんですけど、皆さんいかがですか?笑
考えると当たり前のことで、そもそも弥生時代ってのは「稲作」がキーワードになっているわけです。
でも、北海道は寒くて稲作ができなかった!!(今は有数の米どころですけどね)
本州以南で稲作が始まり弥生時代へと変化していった頃、北海道では引き続き狩猟・採集を中心とした縄文時代を継承した文化が栄えていました。
続縄文時代は7世紀頃まで続いたとみられ、本州以南の古墳時代〜飛鳥時代にあたります。
古墳時代以降、本州以南では土師器(はじき:弥生土器から進化した土器)が盛んに作られるようになり、北海道にも伝播した模様。
北海道版土師器のことを、表面に擦ったような模様が付いていることから「擦文式土器」と言い、この土器が用いられた7世紀〜13世紀頃にかけてを「擦文時代」と言うんですね。
本州以南の奈良時代〜鎌倉時代にかけて、ということになります。
と、言うことはですよ!!
日本史の教科書で習ってることって、北海道(もちろん沖縄も)には全然当てはまらないってことなんです…!当たり前と言えば当たり前だけど、うっかり見落としがちな観点。
アイヌ民族は、こうして和人の影響を強く受けながら、独自の文化を築いていたのですね。
(4)オホーツク文化
ちなみに、北海道(普通に使っちゃってるけど、この時点では「北海道」と言う名前はない)には、アイヌ民族以外にも民族が住んでいました。
それが「オホーツク人」と呼ばれる人たち。
その名の通り、オホーツク海沿岸の北海道北東部に住んでいたと見られる民族です。最盛期には、樺太南部から北海道北東部、北方領土あたりまで分布していたと見られています。
彼らは、漁業と狩猟(特にアザラシやオットセイなどの海獣)で生活する海洋民族でした。
オホーツク人もまた、起源が諸説あるわけですが…どうもシベリア方面の民族と共通している部分が多いようで、北方からやって来たと考えるのが有力。
独特の土器を用いて、独自のオホーツク文化を築いていたようなんですが、9世紀頃に擦文文化の影響を受けて徐々に消えていったと言われています。
ただ、擦文文化とのハイブリット的な「トビニタイ文化」という文化の存在も指摘されていて、ちょっとずつ擦文文化と同化していったということのようですね。
最終的には、13世紀頃のアイヌ文化進出で消滅したと見られているそう。
こう考えると、北海道と本州以南を合わせて考えた場合、擦文文化−オホーツク文化−本州以南の文化、というのが並行して存在していたってことになりますね。
興味深い!!
2. 和人がやってきた
(1)アイヌ文化誕生
先ほどから「13世紀頃にアイヌ文化が誕生した」と書いていますよね。
アイヌ民族は先住民族だったわけですが、アイヌ文化というのは、それまでの擦文文化・オホーツク文化を元にして生まれた文化だったのです。
言うなれば、本州以南で平安文化から鎌倉文化に移行した、というのと同じ流れ。
同時に、本州以南の文化の影響も強く受けているというのがポイント。
こうして生まれたアイヌ文化が、時代とともに変化しながらも、アイヌ民族独自の文化として根付いていったというわけです。
アイヌ文化を詳しく紹介するのは、別の回に譲るとして…笑
一つだけ、宗教的感覚が面白いのでご紹介します。
宗教の側面から言いますと、かなり和人の神道に近いものを感じます。
アイヌ語で「人間の静かなる大地」を「アイヌモシリ」と言いましたが、それに対して「神霊が宿る大地」のことを「カムイモシリ」、冥界のことを「ポクナモシリ」と言います。冥界=ポックリ、わかりやすい。笑
アイヌ民族は自然と共存してきたので、元来アニミズム的な側面が強くありました。
これって、古来の神道の形と似てますよね。
アイヌモシリ=葦原中国(あしはらなかつくに)、カムイモシリ=高天原(たかまのはら)、ポクナモシリ=黄泉国(よみのくに)と考えると、日本神話の世界観とも共通してきます。
あ、日本神話の代表「古事記」に興味を持った方は、こちらからどうぞ。笑
himekuri-nippon.hatenablog.com
正に、上の「天地開闢(てんちかいびゃく)」に近い神話がアイヌにもあって、結構面白いんですよ!
こうした文化について詳しく知りたい方は、「阿寒湖アイヌコタン」のホームページを読んでみて!
(2)和人の気配がする
突然ですが、それまでの擦文文化とアイヌ文化の最大の違いが、土器から鉄器を使うようになったという点。
ところが、アイヌ民族は製鉄技術を持っていなかったそう。
じゃあ鉄製品をどこから手に入れていたのかと言えば…中国(明)や和人との交易からでした。
実際、平安時代末期あたりから和人が渡島半島南部に進出してきたと見られ、鎌倉時代初めには蝦夷管領(えぞかんれい)という幕府の役職が置かれています。
北海道(蝦夷地)は、重犯罪者の島流し先だったようで、蝦夷管領は罪人たちの監視役でした。
蝦夷管領は安東氏(のちの戦国大名・秋田氏)が代々務めていて、その支配下に置かれた和人の豪族たちを通じて、アイヌ民族と交易をしていたようです。
最初のうちは良かったんですが、室町時代になると和人の支配が強烈になっていったみたい…
(3)秘技!コシャマインっ!!
室町時代の1454年、安東氏は渡島半島南部に「道南十二館(どうなんじゅうにたて)」と呼ばれる、和人領主館を建設します。
この領主館に部下たちを配置して、アイヌ民族との交易を独占したんですね。
一方、海を越えた明では1449年に土木の変が発生。
詳しくは、「世界史の窓」のこちらをご覧ください。笑
要するに、現役の皇帝が捕虜になってしまったことで、明の北方への影響力がだだ下がりすることになったのです。
こうなると、中国北方を通じて明から鉄製品を仕入れていたアイヌ民族は、やむを得ず和人との交易に依存せざるを得なくなります。
ただでさえ渡島半島での支配を強めていた和人に、依存せざるを得ないアイヌ民族…。
そんなある日、アイヌの男性が和人の鍛冶屋に小刀を注文します。
出来上がりを見たアイヌ男性は「この品質でこれは高くない?!」と抗議、これが小競り合いに発展。
その結果、和人の鍛冶屋がアイヌ男性を殺害してしまいました!!!
物騒な…!!!!!
和人の支配強化に不満を募らせていたアイヌ民族たちは、ついに怒りが爆発!!!
コシャマインという人物を中心に一致団結し、1457年、和人相手に武力蜂起したのです。
この事件を「コシャマインの戦い」と言います。
コマ社員じゃないですよ。
ちょっと話が逸れますが、アイヌ民族が団結したっていうのは大きな意味を持っていまして…
なぜなら、アイヌ民族って中央集権的な国家だったり、影響力のあるリーダーだったりがいなかったから。
基本的には「コタン」と呼ばれる集落ごとに生活していて、コタンが連合することはあっても、居住地域の川ごとに文化も方言もバラバラだったんですって!
(今でも「積丹(しゃこたん)」など、地名に残っていますね)
だから、コシャマインを中心に立ち上がったというのは、よっぽど和人の支配に怒りが溜まっていたってことなんでしょうね。
戦いの経過を見ると、かなりアイヌ民族優勢だった模様。
道南十二館のうち、10館がアイヌ民族によって攻め落とされています!
ところが!
和人側の武将・武田信広の作戦によって、コシャマインが殺害されるとアイヌ民族の勢いは削がれ、結果的にアイヌ民族は敗れてしまいました。
コシャマインの戦いは、アイヌ民族が敗れたということももちろんですが、武田信広が北海道(蝦夷地)における支配を確立したという点も重要です。
なぜなら、信広はのちに蠣崎氏(かきざきし)を継承し、この蠣崎氏が江戸時代に松前氏として、北海道における支配圏を確立していくからなのです。
この事件以降、アイヌ民族と和人は度々衝突するようになっていくのでした…。
《後編へ続く》
※(2020年3月15日追記)実際には完結しておらず、中編となっています。
himekuri-nippon.hatenablog.com
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chimon
(参考文献)
・武光誠著『日本人なら知っておきたい日本』育鵬社, 2018
※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。