【2020年3月15日】意外と知らない北海道の成り立ち《中編》
《この記事の文字数:約4,900》
ちょっと読み応えアリ
どうも、chimonです。
3月13日は青函トンネルの開通記念日ということで、「北海道の成り立ち」についてお送りしています。
今回は後編!の予定でしたが、やっぱり中編!!いつものごとく、ちっとも終わらないので!笑
3回シリーズってことで、生温く見守ってもらえればと思います…。
前編をまだ読んでいない方はこちらからどうぞ!
himekuri-nippon.hatenablog.com
3. 松前藩のお通りだー!
(1)和人地を認めちゃいました
前編の最後でご紹介した通り、「コシャマインの戦い」によって勝利を収めた武田信広は蠣崎氏(かきざきし)を継承。蠣崎氏は、道南における支配を強めていくことになります。
そして、1550年頃に「夷狄の商舶往還の法度(いてきのしょうはくおうかんのはっと)」が結ばれるに至りました。
いてきのしょうはく…?笑
簡単に言うと、渡島半島における和人とアイヌ民族の間で結ばれた講和条約です。
前回も少し触れましたが、アイヌ民族というのは民族で結集して国やリーダーを立てるということが少なく、地域ごとに多様性を持っていました。
1356年に記された、長野・諏訪大社の縁起「諏方大明神絵詞(すわだいみょうじんえことば)」には、「蝦夷地(北海道)には、日の本・唐子(からこ)・渡党(わたりとう)という3つの住民が居住していて、食文化も言葉も異なっていますよ〜」的なことが記録されています。
このうち、渡党は道南に居住していたとみられ、諏方大明神絵詞の中でも「和人に結構似てて、言葉も多少通じるよ〜」って書かれているらしい。
一番本州寄りに居住する民族なので、津軽との交易もあった模様。
そんなことから、和人との混血なんかもあったみたいで「実際には和人だったんじゃないか」という説もあります。
で、「夷狄の商舶往還の法度」(以下「夷狄の法度」)の話に戻しますね。
夷狄の法度によって、アイヌ民族と蠣崎氏の間に講和が結ばれるわけですが、講話を結んだアイヌ民族が日の本・唐子だったんじゃないかと言われています。
渡島半島東側を支配していた日の本、西側を支配していた唐子。
具体的には、次のようなことを定めました。
天河と知内のライン、を地図で表すとこんな感じ!
アイヌ的には蠣崎氏からお金もらえるし、和人と争うことなく自分たちの生活圏を確保できるし、歓迎ムードだったみたい。
しかし、別の側面から見れば、蠣崎氏による渡島半島南西部の支配権を認めることにもなっていますよね。
やり方が上手かった、ということでしょうか。
(2)将軍様のお墨付き
ところで、夷狄の法度が締結される際、安東氏が仲立ちをしています。
前編で、蝦夷管領(えぞかんれい)を任されて、道南十二館(どうなんじゅうにたて)を建設したというお話をした安東氏です。
この時点では、蠣崎氏も安東氏支配下の領館主に過ぎないんですね。
ところが、徐々に他の領主たちを従えて力をつけていった蠣崎氏は、夷狄の法度によって蝦夷地支配を強めていきます。
そして1593年、時の天下人・豊臣秀吉から蝦夷地に入る商船に対する独占的な課税権を承認され、晴れて安東氏からの独立を果たしたのです。
天下人に「北海道はお前らが交易してOK!」とお墨付きをもらっちゃったわけですな。
さらに1599年には、徳川家康にも蝦夷地での交易を認められたことで「松前氏」に改姓。1604年、家康から安堵状(蝦夷地における交易を保証する文書)を与えられ、日本最北の藩である「松前藩」が誕生することとなったのでした。
なお、これらの出来事は蠣崎(松前)慶広の時代のこと。
彼はとっても立ち回りの上手い人物だったようで、アイヌ風の衣装で出陣して秀吉を喜ばせたり、蝦夷地の素材で作った衣服を家康に献上したりして、権力者に認められたそうな。
世渡り上手!!笑
(3)松前藩は特別待遇
かくして「松前藩」が誕生したわけですが、ちょっと皆さんに考えて欲しいことがあります。
よく「加賀百万石」なんて言いますよね。
「石高」っていうのは、大名の格を表したなんて話も前に取り上げました。
himekuri-nippon.hatenablog.com
ところが、ですよ!
思い出してみてください。
「北海道には弥生時代がなかった」のは何ででしたっけ?
そう、稲作ができなかったから!
ということは、蝦夷地で米は獲れない=松前藩は石高ゼロ、ってことなのです。
松前藩は「石高1万石」っていうことにはなっていたんですが、実際には石高ゼロの「準大名」的扱いだったんですね。
米が取れない松前藩は、何で収入を得ていたのか?
そうです、アイヌとの交易による利益!この利益で、他の藩から米を購入することで藩の財政をやりくりしていたのです。
ここで視点を変えると、一つ面白いことが分かります。
あくまでも幕府は「アイヌとの交易」を認めていたわけで、「アイヌに対する支配権」を認めているわけではありません。
つまり、アイヌは外国人扱いだったということ!=蝦夷地は日本じゃない、って認識だったんですね!
日本じゃないって認識だったと考えれば、松前藩を特別扱いした理由も分かります。
1612〜1613年、幕府によって禁教令(キリスト教を禁じる命令)が発布された際も、松前藩は「うちは日本じゃないんで!」っていうのを盾にして、キリシタンを受け入れていた模様。
松前藩は所領も安堵されていなかったんですって!
なぜなら、蝦夷地は日本じゃないから、幕府によって所領を与えるっていう感覚がなかったから。
あくまでも、「在外の領事館を松前藩にお任せしまーす」的な感覚だったんですね。
鎖国はいずこ…?笑
(4)思わぬ形で日本領誕生
先ほどお話しした「キリシタンを受け入れていた」という事実が、思わぬ形で蝦夷地に変化をもたらすことになります。
松前藩がキリシタンに寛容ということが、弾圧され始めていたキリシタンに知れ渡ることとなり、いつの間にやら多くのキリシタンが蝦夷地に逃げ込んでいたんですね!
自分がその立場だったら、間違いなくそうします。笑
キリスト教弾圧を強めていた幕府としては、蝦夷地を支配する松前藩への引き締めを強化する必要性が生じます。
でも、蝦夷地は日本じゃない…どうすれば…!
そこで幕府は、松前藩の領地を明確化することにしたのです!領地を明確化すれば、その範囲では命令に従わせることができますからね。
松前藩の領地を明確化する=これまで「外国」だった蝦夷地の一部を日本領とする、ということ!
キリシタン弾圧という思いがけぬところから、アイヌのいる蝦夷地が日本に組み込まれることになったのです…!!
4. それはないっすよ、松前藩さん
(1)商場知行制
アイヌとの交易を独占していた松前藩ですが、交易に際しては「商場知行制(あきないばちぎょうせい)」と呼ばれる制度を適用していました。
江戸時代の初め、各地を支配する大名は「地方知行制(じかたちぎょうせい)」という制度を運用していました。
これは、大名が家臣に対して一定の領地を与えて、その領地内での年貢率決定権や徴収権などを与えるしくみ。そうやって家臣への給料を支払っていたというわけです。
ところが、松前藩では米が獲れない!
そこで登場するのが、商場知行制。
字面から何となく想像つくかもしれませんが、蝦夷地内に交易拠点を設けて家臣に与え、そこで行われるアイヌとの交易によって得た利益を給料代わりにしていたのです。
商場知行制によって、エラい迷惑を被ることになったのがアイヌの人々。
それまでは北方や中国なんかとも自由に交易できていたのに、松前藩によって交易を制限された挙句、交易する場所まで制限されてしまったわけですからね…。
しかも、交易を独占しているのを良いことに、松前藩はやりたい放題!
アイヌにとって超不利なレートで交易させられたり、本来なら和人が立ち入ってはいけないはずの場所まで不当に侵入してきたり…
超不利なレートをふっかけておいて、それをアイヌが飲まなかったら子供を人質に取るなんてことも…
結果、アイヌの人々の松前藩に対する不満はどんどん溜まっていきました…!
(2)シャクシャインの戦い
こうした背景の中、ついにアイヌが怒りを爆発させたのが1669年の「シャクシャインの戦い」。
日本史でも必ず出てくる有名事件ですよね!
少なくともchimonは、どんな事件かさっぱり分かっていなかったんですけど…。
詳しくは、こちらのページが分かりやすかったのでご紹介!
簡単に経過をまとめると、もともとはアイヌ民族同士の抗争に端を発します。
繰り返しになりますが、アイヌ民族はそれぞれの集団で独立していたので、部族同士での争いもあったんですね。
それが激化し、ついには殺し合いにまで発展していました。
そんな中、首長を殺された部族側の人間が、松前藩に「武器を援助してもらえないか」とお願いしにいきます。
松前藩としては、アイヌ民族同士で争ってほしいわけがないのでお断り!
断られたアイヌの使者は、帰る途中で運悪いことに病死してしまいます。
この話を聞いたアイヌ民族たちは、「絶対に松前藩が毒殺したに違いない!!」と勘違い。
シャクシャイン(もう片方の部族の首長)は、「アイヌ民族の中で争ってる場合じゃねぇ!!敵は、松前藩にあり!!」と結束を呼びかけ、一致団結したアイヌ民族は武力蜂起することになりました。
勘違いから始まったとは言え、アイヌの人々の怒りは相当なものだったんでしょう。気持ちは分かります…。
幕府や諸藩の支援を受けた松前藩の前に、シャクシャインたちは徹底抗戦。長期戦の様相を呈していました。
双方とも、早く戦いを終わらせたかった。
ってことで、松前藩からシャクシャイン側に「仲直りしましょうよー」という申し入れがあります。
これに応じたシャクシャインと松前藩の間で、和睦のための宴席がセッティングされました。
ところが!!
すべて松前藩の罠!!
宴の場で、シャクシャインは殺害されてしまいます。
リーダーを失ったアイヌ民族は急激に力を失い、結果的に松前藩が勝利を収めるのでした。
松前藩、それがお前らのやり方かぁーーーーー!!!!!
戦いに勝利した松前藩は、アイヌの人々に「七ヵ条の起請文」というとんでもない約束を結ばせ、松前藩に対する絶対服従を誓わせます。
ここに、アイヌ民族の悲劇が決定的になったわけです…。
(3)場所請負制の始まり
シャクシャインの戦い後、1700年代に入ると「商場知行制」に代わって「場所請負制」が取られるようになります。
この2つの違いは、こちらのページがとても分かりやすいのでどうぞ!
要するに…
って感じ。
家臣たちにしてみれば、楽して確実にお金が手に入るわけですな。
何となく嫌な予感しますよね…?笑
当然、交易を任された商人たちは、私利私欲に走ります。もはやお決まりのパターン…。
おまけに、幕府や北方の大国の思惑までが複雑に絡んできて…アイヌはさらなる悲劇に巻き込まれていくことになるのでした…!!
《次回こそ完結したい!笑 後編へ続く》
※(2020年3月16日追記)結局、この次でも完結せず「後編②」へと続いています。
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chimon
※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。