【2020年2月17日】祈年祭って何だ?〜明治に復活するも途絶えた幻の国家行事〜
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どうも、chimonです。
今日2月17日は「祈年祭(きねんさい・としごいのまつり)」だってご存知でしたか?
私は恥ずかしながら…今日調べてて知りました。笑
ということで、今日は「祈年祭」がどのようなもので、どんな歴史を辿ってきたのか見ていきましょう!
1. めっちゃ大事なお祭りやったんや!
まず、祈年祭というのはどういうお祭りなのでしょうか?
「年を祈る」と書きますが…。
この「年(とし)」というのは、穀物、とりわけ稲のことを指すのです。
実際、辞書にも載ってるんですね。
【年・歳】
4 穀物、特に稲。また、稲が実ること。「我が欲 (ほ) りし雨は降り来 (き) ぬかくしあらば言挙 (ことあ) げせずとも―は栄えむ」
そう言えば、歳神様は五穀豊穣を祈る神様だという話を以前に取り上げました。
これを踏まえると、「祈年祭」とは「稲を祈る祭り」。つまり、1年の五穀豊穣を祈るためのお祭りということ。
この祈年祭、かつては旧暦の2月4日に行われていました。
2月4日と言えば!立春!!
そう、立春にアップしたこの記事で特集しましたね。
himekuri-nippon.hatenablog.com
上の記事の中で、立春はもう一つの「新年」にあたるものだったというお話をしました。さらに、前日の節分は「大晦日」だったとも。
himekuri-nippon.hatenablog.com
祈年祭がかつて旧暦の立春に行われていたというのは、即ち「その年の農作業の始まり」を祈るという意味があり、とても重要な祭祀だったということ。
先ほど「年」は「稲」を表すと言いましたが、さらに掘り下げると「稔り」を表す言葉。
「1年」というのは暦上の1年でもあり、同時に稲が稔る周期のことも指していました。
だからこそ、農作業が本格化する祈年祭が1年の始まりであり、対となる11月の「新嘗祭(にいなめさい)」が「1年の五穀豊穣を感謝する祭事」として重要視されたのです。
伊勢の神宮では、現在でも祈年祭と新嘗祭をセットとして毎年執り行っています。
2. 最近やたら登場する大宝律令
そんな祈年祭ですが、歴史はかなり古い模様。
「古語拾遺」によると、田畑を司る大地主神(おおとこぬしのかみ)が五穀豊穣を司る歳神の祟りに触れてしまい、大地主神の田んぼに植わっていた苗が枯れてしまったそう。
…歳神様、何て事するんや…。
祟りの赦しを請うため、大地主神は白馬・白猪・白鶏を捧げました。これが祈年祭の起源とされているそうです。
ちなみに、神に獣を捧げるっていうのは牧畜文化が栄えた中国の影響みたいですが、中国では一般的に牛・羊・豚が捧げられるみたい。
日本に伝わった際に、狩猟動物の代表である猪と、太陽を象徴する鶏(古事記では「常世長鳴鶏(とこよながなきどり)」と言って、天岩戸隠れ神話の際、天照大御神を呼び出す存在として登場します)になったと考えられますね。
古代にこれが変化して、五穀豊穣を願って歳神にお供え物をするという「祈年祭」が誕生しました。
第40代天武天皇の時代、西暦675年ごろには近畿地方で行われていたという記録が残っていると言いますから、かれこれ1300年以上の歴史!
701年制定の大宝律令において、二官八省からなる中央官制が敷かれると、二官の一翼を担った神祗官(じんぎかん)によって神道の各祭祀が営まれるようになります。
この時、数ある年中祭祀の中でも特に重要とされた大祭こそ、祈年祭と新嘗祭だったのです!
とりわけ祈年祭は、1年の農耕儀礼の始まりを祈るということから、五穀豊穣祈念以上の意味を持っていました。
一年の農耕儀礼の端緒ということもあり、祈年祭は、五穀豊穣のみならず、国家安泰、国土繁栄なども願う、国をあげた大規模な祭りへと発展。祭りの前には物忌みをして心身を清浄に保つことが求められるなど、厳粛に執り行われた。
当初は歳神様に祈りを捧げる行事だったのが、国土繁栄祈念と結びついて、天照大御神を中心とする神々へ祈りを捧げる神事へと発展していったというわけ。
3. 京の都炎上、祈年祭どころじゃありません
祈年祭は国土繁栄を願う一大行事ですから、全国の神社で執り行われます。
平安時代に成立した全国神社一覧「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」に記載されている3,132の神々(2,861社)全てに、神祗官あるいは国司から幣帛(へいはく・ぬさ:神へのお供え物)が奉献されていました。
まさに、天皇を中心とした国家行事だったわけですね。
律令制下では、2月の祈年祭・11月の新嘗祭と6月・12月に行われる月次祭(つきなみのまつり)という4つの祭りを「四箇祭(しかさい)」と呼び、最重要の国家祭祀とされました。
そんな国家を挙げての一大行事だった祈年祭でしたが、律令制の衰退とともに徐々に意味合いが薄れていきます。
そして、1467年から始まった応仁の乱によって、ついに廃絶されることとなったのでした。
応仁の乱は京都の街を焼き尽くしたと言われており、同時代に他の宮中祭祀も廃れた背景があるようです。
4. 国家祭祀復活
応仁の乱によって途絶えた祈年祭でしたが、時代を経て明治時代に復活を遂げます。
武家社会が終わりを告げた明治時代、明治天皇を中心とした強い国家を作るという目的のもと、国家神道政策が取られることとなりました。
1868年に神祗官が復興するとともに、国家祭祀として祈年祭が再び行われることになったのです。新暦へと改暦されて以降は、現在の2月17日に行われるようになりました。
1908年には「皇室祭祀令」が発布。年中の宮中祭祀が制度化され、祈年祭は宮中祭祀における小祭として位置付けられるに至ります。
なお、この皇室祭祀令は戦後に廃止されました。
国家神道と強く結びついた祭礼だったため、国家神道廃止を命じたGHQの神道指令によって廃止されたわけです。
ただ、現在でも宮中祭祀は「天皇の私的な儀式」として続けられており、その内容は戦前の皇室祭祀令に準じた内容で執り行われているそう。
また、最初の方でご紹介した伊勢の神宮をはじめ、全国の神社では例大祭・新嘗祭と並ぶ「大祭」の一つとして執り行われています。かつては農作業について祈る祭りでしたが、今ではあらゆる産業の発展を祈念するお祭りになっているそうですよ。
時代に合わせて、祭りの意味合いも変わってるんですね!
と、まあこんな感じですが、祈年祭そのものは元々「一年の五穀豊穣を祈る儀式」だったわけで、本来は国家神道との結びつきと関係なく催行されてもおかしくないもの。
実際、現在でも全国各地に、民間祈年祭とも言うべき「田遊(たあそび)」という伝統行事が残されています。
その年の豊作を祈って、模擬の田植えをするんですって。
5. まとめ
今日は「祈年祭」の概要や歴史について深掘りしてきました。
「1年の五穀豊穣を祈る」という大切な民間信仰が国家行事と結びつき、律令制・応仁の乱・明治維新・太平洋戦争という激動の歴史に翻弄される…。
祈年祭の歴史を紐解いていくと、日本における神道の流れも何となく見えてきますね。
そういう意味でも、非常に象徴的な祭祀なのかもしれません。
今回は少し軽めに!ここまで!
では!
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chimon
(参考文献)
・茂木貞純監修『日本人なら知っておきたい![図解]神道としきたり辞典』PHP研究所, 2014
・神社本庁監修『神社検定公式テキスト①『神社のいろは』』扶桑社, 2012
・山折哲雄監修、田中治郎著『面白いほどよくわかる日本の神様』日本文芸社, 2013
※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。