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【2020年3月12日】春場所開幕!日本の国技「相撲」について調べてみた《後編》

《この記事の文字数:約6,000》

 読み応えアリ!

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さあ完結するのか?!笑

どうも、chimonです。

 

前編・中編とお送りしてきた「相撲」シリーズも、今回でいよいよ後編!

 

果たして完結となるか?!笑

 

乞うご期待!

 

■これまでの記事をまだ読んでいない方は、こちらからどうぞ!

himekuri-nippon.hatenablog.com 

himekuri-nippon.hatenablog.com

 

6. 相撲大好き、信長さん

(1)勧進相撲という金儲け、世間を席巻

少し前回のおさらいをすると、平安時代末期から鎌倉時代にかけて隆盛を極めた「武家相撲」と並行して、応仁の乱以降は各地で「土地相撲」が見られるようになりました。

 

また、寺社修繕のためのチャリティイベント的勧進相撲(かんじんずもう)」が見られるようになった、というお話もしましたね。

 

 

室町時代に誕生した勧進相撲ですが、盛んに行われるようになったのは戦国時代のことでした。

 

 

とは言え、前回も少し触れましたが、武家相撲が無くなったわけではありません。戦国の世ですから、武士にとって日々の鍛錬は欠かせませんからね!

 

武士が身につける武術の一つとして相撲を取り入れる動きは残っていたようで、戦国大名お抱えの相撲取りもいたみたいです。彼らは、戦国大名に武術としての相撲を伝える役割がありました。

 

 

一方で、土地相撲や京相撲をルーツとする専門の相撲団もありましたが、正直なところ大名お抱えの相撲取りとの実力差が凄かった。大名お抱えの相撲取りは、戦国大名に教えるくらいですから、めっちゃ実力者だったんですねー。

 

ある歴史書の記録では、「京からやって来た相撲団が、戦国大名お抱えの相撲取りと勝負することになった時、お抱え相撲取りが大きな竹を割って『方屋(かたや)』代わりにした。その様子を見て、力の強さに唖然とした相撲団は、相撲を取るどころじゃなくなった。」なんて話が…。

 

相撲団、情けなっ!!笑

 

 

力のある戦国大名が召し抱えることで、相撲取りの実力がどんどん上がって、戦国時代も後半に差し掛かると、全国各地で「勧進相撲(という名の興行)」が行われるようになりました。

 

 

そして、特に相撲好きで有名だったのが、ホトトギス三人衆の一人(笑)・織田信長

 

 

江戸時代初期に書かれた信長の一代記「信長公記(しんちょうこうき)」には、信長が上覧相撲を度々開催したという記録が残っています。

 

1578年と1580年には、安土城下で年2回、京と近江国から相撲取りを呼んで上覧相撲を観戦。

 

 

1578年8月の上覧相撲では、成績優秀だった相撲取りに賞品を与えました。賞品の中にはお屋敷があったというから、驚き!!

 

信長も優秀な相撲取りを召し抱えていました。

 

 

同様に、ホトトギス三人衆の残り(笑)豊臣秀吉も上覧相撲を行なったという記録が残っています。

 

徳川家康については、1590年8月に江戸へ入城した際、武蔵国総社の大國魂神社(おおくにたまじんじゃ:今も東京府中に所在)にて奉納相撲で歓迎されました。

 

この時の奉納相撲、現在でも「八朔相撲祭」として続けられているみたいです。

www.ookunitamajinja.or.jp

 

まとめると…織田信長をはじめとする全国の有力大名が、相撲取りを召し抱えたことによって、戦国時代末期にかけて勧進相撲(という名の金儲け)が広まったのでした。

 

(2)相撲レスラー、場外乱闘

ちなみに、上の話に出て来た「方屋」というのは、相撲をとる場所のこと。

 

 

そうそう、この時代の相撲ってまだ土俵がないんですよね!!

 

鎌倉時代あたりから、相撲取りの周りを観衆が囲んでいた(これを人による方屋ということで「人方屋」と呼ぶ)そうで、いつの間にか「相手を観客に投げ込んだ方が勝ち」みたいなルールが生まれた模様。

 

 

 

命がけの相撲観戦や…!!!笑

 

 

 

で、ちょっと先取りになりますが、江戸時代あたりに問題発生。

 

 

人方屋を作っている観客が、「推しの相撲取り」が勝てるようにと、対戦相手を掴むなど妨害しまくり…!

 

人方屋と相撲取りで喧嘩が絶えなかったんだそうで。笑

 

 

そうなるよねー、そりゃ!!!

 

 

ってことで、方屋の四方に紐を張るようになって、それが俵になって…結果今のような土俵になっていったんですって。

 

 

人方屋はもともと円陣のような感じだったことから、名残で土俵は丸いそうな。へぇ。

 

 

とりあえず土俵があって良かった。笑

 

土俵がなかったら、常にプロレスの場外乱闘みたいな感じになっちゃうもの。

 

 

7. 相撲、庶民の娯楽へ

(1)盛り上がり過ぎた勧進相撲

戦国時代までは、相撲専門の職業人が生まれたとは言え、武家相撲的な性格は保っていたわけです。

 

戦国大名が召し抱えていたのは、あくまでも武術を鍛錬するためという目的があったんですからね。

 

ただ、家康が江戸幕府を開くと天下泰平の世の中が訪れます。

 

 

すると、もはや武家相撲の意味はない!戦わないもの!

 

 

ってことで、ますます勧進相撲が盛り上がっていくことになりました。

 

 

平和な世の中になった分、様々な問題が発生するようになります。

 

例えば、投げ銭を目当てにした辻相撲。大道芸人のごとく、街中で相撲をやってお金を稼ぐというもの。ストリート相撲ファイター。笑

 

京や大坂では相撲巡業も盛んに行われていたそうですが、いかんせん、今ほどルールが厳格でない時代。

 

乱入騒ぎだの喧嘩だのが絶えなくて、17世紀後半〜18世紀初頭にかけ、ついに幕府が勧進相撲禁止令」なるものを複数回発布することに…。

 

平和になったことで、実践の場を相撲に求めちゃったんですかね…?

 

 

これによって困っちゃったのが、相撲で食っていた相撲取りたち。

 

 

「このままじゃ、お金なくて死んじゃう!」ということで、相撲取りたちの集団が作法や決まり手をしっかり決めて、土俵を整備して「これだけ準備したんで!ちゃんと行儀よくやるんで!再開させて!お願い!」と頼み込んだ結果(多大に意訳。笑)、徐々に勧進相撲が許可されていきました。

 

 

(2)親方と相撲部屋のはじまり

「何かあったら責任とりますんで!」ということで幕府から許可を得た、相撲の株仲間(相撲興行を仕切る人たちの集団)たちこそが、現在の年寄、いわゆる「親方」のルーツです。

 

年寄って、相撲取り浪人だったらしいです。相撲経験者が、相撲を取り仕切るようになったというわけ。

 

 

元は、京や大阪にもそれぞれ「頭取」と呼ばれる、相撲興行を取り仕切るトップがいました。

 

しかし、結果的に江戸が相撲の中心地として確立していくことになります。

 

 

その理由は、江戸時代になっても各地の大名が相撲取りを召し抱える、という構図は変わっていなかったからなんですね。

 

戦国の世は終わりましたが、召し抱えは続いていたという事実!

 

 

で、世は江戸時代。

 

大名には、あの制度が課せられています。

 

 

そう、参勤交代!

 

 

大名は参勤交代によって、地元と江戸を往復する生活を余儀なくされます。だから、江戸には大名屋敷がたくさんありました。

 

となると、召し抱えの相撲取りたちも江戸にいる時間が長いわけです。

 

じゃあ、そんな中で修行させようと考えた大名がどこに預けるかっていったら、江戸の年寄のとこに預けるんですねー。

 

 

こうして、江戸の年寄衆の元で、大名お抱えの相撲取りが修行を積むという構図が出来上がりました。

 

 

お!そう!正に相撲部屋のルーツですな!

 

 

ここまでくると、もう現在の大相撲の基礎がほとんど出来上がってきたと言えます。

 

 

(3)富岡八幡宮が「江戸勧進相撲発祥の地」と言われるワケ

ところで、新横綱が誕生すると門前仲町富岡八幡宮で、奉納土俵入りが行われるのをご存じでしょうか?

 

富岡八幡宮には横綱力士碑があって、そこに名前を刻む映像を見たことがある人も多いのでは?

 

 

この富岡八幡宮は、「江戸勧進相撲発祥の地」と言われています。

 

これ、なんで?というお話。

 

 

実は、先ほどお話しした株仲間による勧進相撲が許可された1684年、初めて相撲が行われたのが富岡八幡宮だったんです。

 

それから約100年にわたって、江戸勧進相撲は春秋の年2回、富岡八幡宮で行われていたそうですよ。

 

富岡八幡宮のホームページに解説がありました!

www.tomiokahachimangu.or.jp

 

ふむふむ。

 

これが、結構面白い話で。

 

 

幕府が勧進相撲を許可するにあたって、何か問題が起きた時に責任の所在をどこに置くか、というのを明確にしたかったみたい。

 

その結果、株仲間が行う相撲興行を寺社奉行管轄にしたのです!

 

 

今だと文部科学省管轄ですよね。

 

 

寺社奉行管轄にしたっていうのは、正に「本来あるべき勧進相撲」という原則に立ち返った判断です。

 

勧進相撲」って言ってるんだから、ちゃんと寺社でやりなさい!ってことですな。

 

 

だから、江戸勧進相撲も神社であるところの富岡八幡宮が開催地に選ばれた、というわけ。

 

 

ただ、さらに面白いのが、京ではちゃんとチャリティーの意味での「勧進相撲」が行われたのに対し、江戸は寺社でやってるだけの興行だったということ。

 

寺社奉行管轄だけど、金儲けは金儲けだったっぽいのです。笑

 

形式的〜!!

 

 

なお、1768年以降は両国の回向院(えこういん)勧進相撲が行われるようになり…

 

カンの良い方なら気づくと思いますが、これが現在の両国国技館へと繋がっていくのです。

 

 

(4)庶民の娯楽になりました

そして、1742年に相撲興行が全面解禁されました。

 

これによって、春:江戸/夏:京/秋:大坂/冬:江戸という年4場所の「四季勧進相撲」が行われるようになります。

 

 

スター力士も登場して(あ、「力士」という言葉が使われるようになったのはこの頃みたい)相撲は武士の娯楽から庶民の娯楽へと変化を遂げます。

 

江戸では、歌舞伎と並ぶ二大人気娯楽だったそう。

 

 

1791年6月には、時の将軍・徳川家斉による上覧相撲が行われたことで、庶民人気は最高潮を迎えました。

 

 

上覧相撲にあたって、大きな変化が起きています。

 

それが、「上覧相撲をやりたいんだけど」というのを伝えた先が力士を抱えている大名ではなく、勧進相撲を取り仕切っていた年寄だったという点にあります。

 

つまり、幕府が相撲興行を行う団体を「相撲のドン」として認めたということであり、正式に「芸事としての相撲」が認められた瞬間でもあるワケですね。

 

現在の大相撲へと発展する、一つの大きな節目だったと言えるでしょう。

 

 

8. 裸で良いじゃない!

(1)まさかの裸体禁止令

江戸時代が終わり、明治の世になると、思わぬ形で相撲は大ピンチを迎えることとなります。

 

 

その発端になったのが、1871年東京府から発布された「裸体禁止令」

 

 

…は?どゆこと?笑

 

 

不思議ですよね〜。裸を禁止する、ってなんだ?と。

 

 

これはそのうち特集しようと思いますが、日本人って江戸時代まで、意外と裸で出歩いちゃう人がいたみたいなんですね。ざっくり言うと。笑

 

銭湯も混浴が当たり前だったそうですから、男女問わず、裸でいることにあまり抵抗がなかったんでしょうね。

 

 

ただ、幕末に半裸でいる日本人たちを見て、外国人たちびっくり!

 

「ニホンジン、ハダカ、ヤバンジン」ってなったらしい。笑

 

 

結果、「文明開化に裸はダメ!」ってことで、裸体禁止令が発布されるに至ったようです。

 

 

 

で、矢面に立たされたのが相撲でした。

 

 

「力士、裸じゃん!」ってなったんですね。裸って。笑

 

 

ついには「相撲禁止論」なんてものまで噴出し、廃絶一歩手前まで追い込まれます。

 

 

(2)明治天皇、ありがとう

そんな相撲の危機を救ったのが、明治天皇でした。

 

明治天皇は相撲好きだったらしく、自らで相撲を取ることもあったみたい。

 

 

相撲禁止論が飛び交う中、1884年3月10日に皇居で天覧相撲が開催されます。

 

 

天皇陛下がお好きな相撲を廃止するわけにはいかない」となったんですねー。

 

 

これの実現にあたっては伊藤博文なんかも携わっているようで、明治政府を支えていた要人も相撲が大好きだったようです。

 

 

明治天皇を筆頭に、数多くの有力者が保護したことにより、今でも私たちは大相撲を楽しめているというわけ。

 

 

ありがとうございます。

 

 

(3)日本相撲協会の誕生

明治から大正にかけては、江戸時代からの名残で東京・大阪にそれぞれ相撲協会がありました。

 

 

2つの相撲協会が合併し、現在の日本相撲協会の原型ができたのは大正末期1914年のこと。

 

 

このきっかけになったのも、やはり天皇でした。正しくは、当時まだ皇太子だった後の昭和天皇

 

 

1914年に、皇太子が相撲を台覧(皇族などがご覧になること)した際、現在の天皇杯のルーツになる賜杯を贈りました。

 

ところが、当時の相撲協会は、ただの興行団体。「公共性がないと天皇杯はマズイでしょ〜」ということになり、東京の相撲協会が財団法人化されたのです。

 

 

東京の協会が公共化されたということで、1927年に大阪の相撲協会が解散。

 

ついに東西の大相撲が合併し、現在の大相撲体制が出来上がったのでした。ちゃんちゃん。

 

 

9. まとめ

さあ、ということで、相撲の歴史を大正・昭和初頭まで辿ってまいりました。

 

いや〜、奥深かった。。

 

 

最後に全編を通して、軽くまとめておきましょう。

 

  • 相撲の起源は諸説あるが、日本書紀に記されている野見宿禰(のみのすくね)VS.当麻蹴速(たいまのけはや)の一戦を起源とする説が一般的。
  • 飛鳥時代あたりから、宮中で相撲節会(すまひのせちえ)」という行事が行われ、神事としての相撲が執り行われた。
  • 並行して、全国の神社で「神事相撲」が行われていた。
  • 時代とともに「相撲節会」は、健児(こんでい)と呼ばれる兵士たちの選抜の場としての意味を帯びるようになった。
  • 相撲節会が廃絶すると、代わって武士の鍛錬として「武家相撲」が盛んに行われるようになった。
  • やがて、専門で相撲を取る職人たちが登場した。
  • 室町時代には、寺社に対するチャリティー相撲勧進相撲が登場した。
  • 戦国時代、織田信長など大名たちによって相撲取りが召し抱えられるようになり、勧進相撲が広がっていった。
  • 江戸時代には、一度勧進相撲が禁止されるが、寺社奉行管轄で再開が許可された。
  • 将軍の上覧もあり、相撲は武士の娯楽から庶民の娯楽へと変わっていった。
  • 明治時代には廃止の危機にさらされるが、明治天皇の上覧によって存続することとなった。

 

簡単にまとめると、こんな感じでしょうか?

 

いやあ、世の中の流れと密接に関わっていて、非常に興味深い内容でしたね。

 

改めて、相撲は面白い!!

 

 

早くコロナウイルスが落ち着いて、「満員御礼」が掲げられた大相撲を観たいものです。

 

 

これにて「相撲」シリーズ、完結!!

 

 

▲ ▲

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 ▽

chimon

 

 

(参考文献)

舞の海秀平著『大相撲で解く「和」と「武」の国・日本』ベストセラーズ, 2017

books.google.co.jp

 

(参考WEB)

・相撲評論家之頁

 http://tsubotaa.la.coocan.jp/index.html

 

 

※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。