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【2020年3月4日】確定申告の季節到来!日本における税の歴史《後編②》

《この記事の文字数:約6,800》

 読み応えアリ!

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今日こそ完結なるか?!笑

どうも、chimonです。

 

今日は、ちっとも終わらないでおなじみ(?)の「日本における税の歴史」シリーズ後編②をお届けします!

 

「後編②」って何やねん!笑

 

全体では4回目となる今回は、江戸時代以降の税の歴史をご紹介していきましょう。

 

無事完結なるか?!乞うご期待!!笑

 

「税の歴史」シリーズを最初から読みたいという方はこちらから。

himekuri-nippon.hatenablog.com

 

前回分を読みたいという方はこちらから。

himekuri-nippon.hatenablog.com

 

 

10. 太閤検地は偉大だった

(1)太閤検地の影響は続く

ついに、大見出しの番号が大台に乗りました!本ブログ史上初の快挙!笑

 

前回は、豊臣秀吉が実施した太閤検地が、税制上非常に大きな意味を持っていたということをご紹介しましたね。

 

この太閤検地は、江戸時代になっても大きな影響を残していました。

 

 

ここで、太閤検地の重要ポイントをおさらいしておきます。

  1. 初めて全国的に行われた!
  2. 土地の権利関係がスッキリした!
  3. 面積や測量の単位を統一した!
  4. 農民が土地の権利を獲得した!

 

4つのポイントは、いずれも時代に関係なく採用できることばかりですよね。

 

実際、江戸時代も太閤検地で培われたシステムが維持されることになったというわけなのです。

 

おまけに、元禄検地(17世紀末にかけて行われた検地)などは大規模に行われますが、太閤検地ほど全国的に行われたものではなかった様子。太閤検地の測量結果は、だいぶ後世まで影響を与えていたようですね。

 

(2)年貢は幕府の生命線

これまでの時代を踏襲していたわけですから、依然として田畑から徴収する年貢は、幕府の収入のほとんどを占めていました。

 

江戸幕府封建制度を確立し、兵農分離を徹底することで農民の地位を固定化します。

 

生命線である年貢を納める原動力になるのは、農民ですからね!

 

 

ところが、江戸時代初期の1640〜1643年にかけて寛永の大飢饉が発生。

 

「やってられませんよー」となった農民たちが、相次いで農地を放棄して三都(江戸・京・大坂)に流れ込むという事態が発生します。

 

幕府からすれば、税収が減ってしまうことに直結する大ピンチ!

 

すかさず1643年に「田畑永代売買禁止令(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)」を発布し、農民が田畑を売買することを禁じます。

 

この禁令は、明治に入った1872年に廃止されるまで名目上運用され続けるのですが、どうもザルだったみたい。笑

 

実態は、質流れなんかで裏取引されていたようで、江戸時代も後半に差し掛かると黙認されていたようです。

 

 

まあ発布当初は、ある程度の効果はあったんでしょうね。

 

(3)モノには税金かけてやんよ!

江戸時代の税制度で重要なポイントの一つが、米以外の多くのモノに税金がかけられたこと。

 

「買ったんでしょ?作ったんでしょ?じゃあ税金納めてね。」っていう考え方が定着したのが江戸時代、と考えて良さそうです。この野郎。笑

 

 

年貢以外の税金のことを諸役と言います。

 

 

江戸時代に徴収された諸役のうち、主なものをまとめると…

  • 運上(金)農民以外の商工業者に課せられる税。
  • 冥加(みょうが)(金):当初は幕府や藩に納める献金のようなものだったが、次第に税へと姿を変えていった。
  • 国役金:幕府が土木工事のため、国限定で課した臨時税。
  • 助郷役(すけごうやく):宿場町の保護などのため、宿場周辺の村落民に課した労役。 

 

特に運上・冥加は、「株」と呼ばれる商工業を営む上での免許にかかる、一種の登録免許税的な性格もありました。

 

例えば、酒造業を営む上で必要になる「酒株」などが挙げられます。国税庁にこんなページがあったので、ご紹介しておきますね。

www.nta.go.jp

 

ここから派生した同業者組合が、日本史の授業でもよく出てくる「株仲間」ってやつですね。

 

 

ふむふむ。

 

商業が発達した鎌倉時代室町時代に、商業に対する税が誕生したというお話をしましたが、正に同じことですよね。

himekuri-nippon.hatenablog.com

 

産業が発達した江戸時代だったからこそ、あらゆるモノに税が課せられるようになった、と。

 

 

ということは、様々な納税に喘ぐ私たちは、それだけ恵まれた時代に生きているっていう証なのかも…。はあ。

 

 

(4)暴れん坊将軍

税の種類は増えても、年貢が税収のほとんどだった江戸時代。

 

農民の税負担はどれくらいだったのでしょうか?

 

 

そもそも農民は領主に対して年貢を納めるので、領地を治める大名によって年貢の割合は異なっていました。

 

幕府の直轄領(天領もしくは幕領と呼ばれる)であれば、幕府に年貢を納める義務があります。

 

 

大名ごとに異なるとは言っても、大体が「四公六民(しこうろくみん)」「五公五民」あたりが相場だったようです。

 

前回もやりましたが、●公○民と言った場合「収穫量の●割を年貢として納め、○割を農民の収入とする」ということを指します。

 

つまり、年貢率は4割〜5割が相場だったってこと。

 

 

しかし、実際のところは結構ガバガバの税制度だったらしく、wikipedia情報では「2割7分6厘程度」の税負担だったそう。ガバガバや!笑

 

 

ところが!

 

 

こうした事態にメスを入れる人物が現れます。

 

 

それが、江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗

 

 

暴れん坊将軍だ!

 

 

吉宗が行った改革、分かりますよね?

日本史でやりましたよね?

三大改革ですもんね?笑

 

 

 

そう、享保の改革ですね!

 

 

 

あ、ちなみにchimonは「3つのうちどれだっけ〜?」ってなりましたよ。笑

 

 

幕府の財政再建のため、18世紀前半に行われた享保の改革

 

改革の二大柱が「倹約」増税出ました、増税

 

 

吉宗は、幕府の収入増大と安定のため、大きく2つの施策を実行します。

  1. 四公六民から五公五民へ年貢率を引き上げ。
  2. 年貢の課税方法を「検見法(けみほう)」から定免法(じょうめんほう)」へ変更。 

 

1つ目は分かりやすいですね。まあ、税収増やそうと思えば、真っ先に思いつく方法です。

 

でも、これって1割上がった以上のインパクトがありました。

 

だって、元はガバガバで実質「2割7分6厘程度」の負担だったんですから!

 

改革が行われたことで、税率が上がるだけでなく徴税もより厳格になりました。結果、1割どころか、実質的に2割以上税負担が増えたとも考えることができ、農民的にはかな〜り厳しい増税だったようです。。

 

 

問題は、2つ目。

 

課税方法として当初用いられていた「検見法」とは、簡単に言えば「その年の収穫量を実際に調べて、年貢の額を決定する方法」のこと。

 

これだと凶作の年には税収が減ってしまい、幕府の収入が安定しないんですね。

 

 

そこで導入したのが「定免法」。

 

こちらは「過去一定期間の収穫高を平均して、この先数年間の年貢の額を決定する方法」です。

 

多少の増減はありますが、過去数年間の平均を取るので、はるかに収入が安定します。

 

 

とまあ、幕府にとっては良いですが、農民からすればとんでもない話!

 

凶作だろうが何だろうが、一定額年貢を納めなきゃいけないわけですから…

 

自分が当時の農民だったら「吉宗、やったろか?」って思ったはず。笑

 

 

実態としては、飢饉の時には領主が減税するとか、一時的に検見法に切り替えるとか、柔軟な運用がなされてたみたいですけどね。

 

 

11. 本日のメインディッシュ「地租改正」

(1)明治の大事業「地租改正」

ここまで見てきたように、江戸時代は太閤検地を継承した年貢中心の制度が敷かれていました。

 

大政奉還により武士の時代が終わると、税制度も大きく転換することになります。

 

その礎となったのが、1873年「地租改正」でした!

 

 

そうそう、前回「税の歴史」シリーズで3つだけ、絶対に覚えて欲しいターニングポイントがあるってお話ししましたね。

 

 何がそんなに大切なのか、具体的に見ていきましょう。

 

 

(2)色々準備が必要なのです

地租改正について詳しく見ていく前に、明治政府は事前準備と捉えるべき施策を次々に打っていました。

 

主なものをご紹介しますと…

  1. 田畑勝手作許可令の発布(1871年) 
  2. 地券交付(1871〜1872年)と田畑永代売買禁止令の解除(1872年)
  3. 地所質入書入規則などの発布(1873年

 

実は、江戸幕府が1643年に「田畑永代売買禁止令」を発布したという話をしましたが、同時期に「田畑勝手作禁止令」も発布していました。

 

田畑勝手作禁止令とは、要するに「米を作るべき田畑で、勝手にそれ以外の作物を作っちゃダメよ!」という法令。

 

年貢は米ですから、米以外の作物を作って税収が下がるのを防ぎたかったんですね。

 

 

1つ目の「田畑勝手作許可令」を発布することで、明治政府は「自由に好きな作物を作って良いよ!」としました。これって「米だろうが何だろうがお金になれば良い」っていうことなんですよね。

 

また、自由に作物を選べるようにしたことで、農民たちに「これはおいらの土地なんだぁ!」と自覚させることにも成功しています。

 

 

続く2つ目、地券というのは「土地所有者に発行される証券」のこと。田畑永代売買禁止令の解除によって自由に土地が売買できるようになったことで、土地の私有が完全に認められることになったわけですね。

 

 

そして3つ目。地所質入書入規則というのは、何となくややこしい言葉ですが…

 

超噛み砕いて言ってしまうと「土地を担保にしてお金借りて良いよ!」ってことを定めたものです。笑

 

 

この3つの事前準備によって、地租改正に向けた次の体制・思想が整ったことになります。

  • 土地の私有を認めます!
  • 土地には、作物に関係なく金銭的価値があります!
  • 土地を耕すことで、お金をじゃんじゃん稼ぎましょう!
  • 土地に関する権利を認めているのは明治政府です! 

 

うん、準備体操バッチリ!笑

 

 

(3)満を辞して地租改正

準備体操で体が温まったところで、ついに地租改正が行われます。

 

言葉は知っていても、意外と内容にピンとこない人も多いのでは?

 

そこで、またまた地租改正のポイントを簡単にご紹介しちゃいましょう!

 

  1. 米じゃなくてお金で納めてね!
  2. 地価の3%を税金として納めてね!
  3. 土地所有者が税金を納めてね!
  4. 全国一律の決まりだよ!明治政府に納めてね! 

 

だいぶ軽い感じでお話してますが笑、要するにこういうことです。

 

 

1つ目、米納から金納へというのはとても重大な変更!

 

江戸時代、享保の改革で検見法から定免法に変更されたとは言え、作物である以上豊凶作に影響されるのは仕方ないこと。

 

明治政府はこれを何とか安定させたかった。そのために、米じゃない納税方法を考えたわけですね。

 

 

ここで2つ目の「地価の3%」というのが効いてきます。地価は、その土地の生産力に応じて決められたのですが、米の収穫量と違って豊凶作に関係ありません。

 

だから、年貢に比べて安定した税収を得ることができるようになったというわけ!

 

 

続いて、3つ目の土地所有者が納税義務を負うという点についても見ていきましょう。

 

江戸時代までは、土地所有者というよりは生産者に納税義務がありましたよね。米で納税するのですから、それで良かったわけです。

 

ただ、生産者に納税義務を与える仕組みだと、江戸時代みたいに商工業者には別の税を課さなきゃいけないし、そもそも誰から徴税するのかも曖昧。税金を逃れる手もたくさんあります。

 

土地所有者に納税義務を課すことで、農民だろうが商工業者だろうが職業に関係なく、「土地を持ってれば、その分税金を納める」という分かりやすい税制度になり、より確実に安定した税収を得ることができるようになったのです。

 

 

そして、最後の4つ目。

 

江戸時代までの年貢は、あくまでも領主に納めるものでした。江戸時代なら、天領であれば幕府に納めていましたが、その他だったら納める先は大名など。

 

大名ごとに年貢率も異なっていて、不均等な税制度だったのですね。

 

明治政府は地租改正によって、全国一律かつ人民平等(農民だけでなく商工業者にも均等に税負担を要求する)の税制度を完成させたのでした。

 

 

こうして見ると分かる通り、地租改正は現在の税制度の基礎になったと言えますね!正にターニングポイント!

 

 

(4)税金、高えよ!

政府にとっては画期的な税制度だった「地租改正」ですが、一般市民にとってはどうだたんでしょう?

 

 

結論から言いますと…

 

 

とんでもない増税でした!!!笑

 

 

考えれば当たり前ですよね…そもそも「地価の3%」って結構な額だし。

 

しかも新たに地価を制定する際、「どうやって地価を決めるのよ?」という至極真っ当な議論が巻き起こることとなり、結果政府が採った方法というのが…

 

「旧来の税収(年貢収入)と変わらない税収をキープできるように、地価を設定しよう!」というもの。

 

あ…笑

 

 

地価によって税収が決まるんじゃなくて、「これだけの税収を確保したい」という政府の思惑によって地価が決められた…という、何だか本末転倒な話。

 

 

つまり、金納に変わろうが、一般市民の負担額は変わらなかったってこと!

 

何なら全国一律、変動もなし!ってことで、ほとんどの人にとって実質的には税負担が重くなったんですね…。

 

 

 

これには、全国の農民が大反発!!!

 

「地租改正反対一揆」が全国で勃発することになり、結果として、改正発表の翌年1874年に早くも2.5%に税率が引き下げられることとなりました。

 

…そんなに早く引き下げるなら、最初から低く設定しとけよ。笑

 

 

かなり人々の反対は激しかったようで、最終的に制度が落ち着くのは1880年のこと。実に7年も歳月をかけた、大事業だったんですね。

 

 

それだけ、税金っていうのは国民の生活に直結してるってことなのです。

 

 

12. まとめ

ここで一つお知らせです。

 

「日本における税の歴史」シリーズ、これにて完結とします。笑

 

この調子でいくと、まだまだ終わらんからです。ごめんなさい。笑

 

 

ということで、「日本における税の近代史」として機会を改めて公開しようと思います!しばしお待ちを!

 

 

では…これだけ長くなってしまったので、最後に簡単なまとめといきましょう。

 

<古代>

  • 邪馬台国で導入されたと見られる税が、日本初の税金。

 <飛鳥時代奈良時代

  • 大化の改新によって、公地公民制が導入される。
  • 農民に田んぼを貸し与え、収穫の一部を納めさせる班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)が確立される。この時代の税金は「租庸調」。
  • やがて、743年に墾田永年私財法が制定され、新たに開墾した土地の私有が認められる。
  • これをチャンスと考えた金持ちが、新たな田んぼを開墾し「荘園」が誕生する。
平安時代
  • 10世紀には、班田収授法が崩壊。
  • 国司が力を持つようになり職権乱用。結果として、寄進地系荘園が増える。
  • 土地の重層的支配が見られるようになり、支配体制が複雑化する。
鎌倉時代室町時代
  • 武士の時代になり、国司に変わって守護や地頭が力を持つようになる。
  • 力を増した守護はやがて守護大名へと変化。武力を持って、戦国大名になる者も。
  • 商業が発達したため、商業に関する税が誕生。産業の発展により、税の種類が多様化したのもこの時代。
<戦国時代>
  • 豊臣秀吉が天下統一を果たすと、太閤検地を実施。これによって平安時代からの荘園が終わりを告げ、江戸時代へと続く年貢を中心とした税制度が確立された。
<江戸時代>
  • 基本的には太閤検地の制度を継承。徳川吉宗によって行われた享保の改革によって、農民の負担が増大した。
  • 年貢以外の商工業者に対する税が増え、税のバリエーションが増えた。
<明治時代>
  • 地租改正によって、それまでの米納から金納へと改められ、現代に続く税制度の基礎が出来上がった。

 

ふぅ〜。笑

 

まとめるだけでも一苦労ですわ。長い!!!笑

 

 

とは言え、このシリーズを一通り見れば、日本における税の立ち位置が分かるのではないでしょうか?

 

この後、所得税法人税源泉徴収、そして平成の消費税へと進んでいくわけですが…その辺りは改めて「税の近代史」でご紹介していこうと思います!

 

 

とりあえず「日本における税の歴史」、これにて完結!無理やり!笑

 

 

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・ ・

 ▽

chimon

 

 

(参考WEB)

・日本税理士連合会「大学生向け講義テキスト−歴史版−」

 http://www.nichizeiren.or.jp/wp-content/uploads/doc/cpta/business/education/11-5%20lecturetext2019university_historic.pdf

 

 

※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。