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【2020年3月2日】確定申告の季節到来!日本における税の歴史《後編①》

《この記事の文字数:約4,000字》

 ちょっと読み応えアリ

 

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完結編…なるか?!笑

どうも、chimonです。

 

3回シリーズ(?)としてお届けしてきた「日本における税の歴史」

 

今回はいよいよ後編ということで、戦国時代以降の税の歴史についてお届けしていきます。

 

無事完結するのか?!乞うご期待です。笑

 

前編・中編をまだ読んでいない方は、こちらからどうぞ! 

himekuri-nippon.hatenablog.com

himekuri-nippon.hatenablog.com

 

 

8. 大名のための政治

(1)戦国大名さんは厳しいお方

中編では、室町時代までの税制度について見てきました。

 

室町時代の後半になると守護大名が誕生し、力をつけた武士たちが戦国大名へと変化を遂げていったという話でしたね。

 

戦国大名が誕生したということは、まさに戦国時代の訪れを意味していたわけですが、全国的に税制度が大きく変わったとは言えません。

 

 

まあ、想像すれば分かりますが、戦国大名というのは武力でのし上がっていくわけで、領地を武力で広げていきます。

 

となると、それまで貴族が所有していた荘園も武力で制圧し、自分たちのものにしていくのです。

 

 

この流れを踏まえると、それまで貴族に払われていた税金が武士の懐に入るようになっただけ、とも言えます。

 

 

ちなみに「荘園を奪われたくない!!」と思うあまり、中央貴族なのに地方の荘園に出向して、「そのまま居着いて戦国大名になっちゃった、てへっ」っていう大名もいたのだとか…。笑

 

 

ただ、そんな時代において異彩を放っていたのが北条早雲

 

小田原城を本拠にしていたことでも知られる、後北条氏の初代当主ですね。

 

彼は戦国大名の先駆者とも言われますが、税制上も重要な人物。

 

と言うのも、北条早雲戦国大名として初めて「検地」を行なったと言われているからなのです。

 

 

検地って何じゃらほい?

 

簡単に言うと「自分の領地でどれくらいの農作物が取れるのか、領内の田畑を測量調査すること」

 

 

応仁の乱以降、群雄割拠状態ですから、領地がどれくらいの生産能力があるのかっていうのも訳わからん状態でした。

 

そこで、北条早雲は自領の田畑の状態を把握しようとしたわけです。

 

検地は支配者にとってだけでなく、農民にとってもありがたい話。お偉いさんに正しい生産能力を認めてもらえるので、必要以上の取り立てがなくなりますからね!

 

 

北条早雲は他にも減税や徳政令の実施など、農民に対する経済政策を行なったそう。こうした善政が、関東一円という広い地域を支配した後北条氏の礎を築いたと言われているみたいですね。

rekishi-memo.net

 

やっぱり、税金政策って重要!!

 

(2)みんなお金が欲しいのよ

北条早雲から始まった検地。

 

「これは使える!」ってことで、後北条氏以外の戦国大名もチャレンジしたみたいですが、結局どこも上手くいきませんでした。

 

 

自領内の田畑について把握するってことは、支配する戦国大名が徴税権を完全に握るということも意味します。

 

そうすると、もらった領地の自治によって儲けていた家臣などからすれば、非常に美味しくない話。

 

ということで、家臣団や有力な一族からの反対が大きかったみたいなんですね。

 

 

だから、結局新しく手に入れた領地に対して行うのがほとんどだった模様。新しい領地なら奪った土地ですから、反対があろうが何だろうが関係ないですもんね…。

 

 

何て言うか…誰一人「人民のための政治」なんて考えていないっていうのが、逆に清々しいですけれども。ええ。笑

 

 

なお、天下統一目前までいった織田信長や、信長に桶狭間の戦いで敗れた今川義元なんかも検地を実施していました。

 

 

9. 太閤検地

ここまで読んでいて、むず痒さを感じていた読者の方もいるのでは?

 

「検地」と言えば、あれじゃないの??って。笑

 

 

そう、ご存じ太閤検地ですね!

 

 

天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が行なった政策で、刀狩とともに日本史の授業で絶対に出てくるやーつ!

 

 

この太閤検地について、何となく「秀吉さんが全国を統一したので、改めて日本全国の土地を調べました。」くらいに覚えてる人も多いと思います。

 

ただ、これこそが税制度の一大ターニングポイント!!

 

 

今回の「税の歴史」シリーズについて「この3つだけは覚えてくれ…」というものを挙げるとしたら…

って感じ!

 

それくらい、太閤検地はターニングポイントになっているのです。

 

次に、太閤検地はどのような点が、税制度上重要なのかというのをまとめてみましょう。

  1. 初めて全国的に行われた!
  2. 土地の権利関係がスッキリした!
  3. 面積や測量の単位を統一した!
  4. 農民が土地の権利を獲得した!

 

では、それぞれ順番に説明していきます。

 

(1)初めて全国的に行われた!

太閤検地の最も大切なポイントは、初めて全国的に行われた検地だということです。

 

あえて言うまでもないですが…

豊臣秀吉は1590年、さっき登場した後北条氏を平定したことにより、名実ともに天下統一を達成しました。(小田原征伐

 

 

戦国大名の多くが検地を上手くできなかった理由を思い返してみると、家臣や有力一族からの反対にあったからでしたよね。

 

全国統一した秀吉だからこそ、半ば強制的に全国の検地をすることも可能になったということ。

 

 

天下統一達成は1590年とされていますが、実際には1582年から検地は始めていたようです。

 

ちょうど本能寺の変で信長がこの世を去り、山崎の戦いで秀吉が明智光秀を倒した年ですね。

 

信長さん死ぬ→信長さん殺した光秀を葬る→ワシの天下!

 

という、分かりやすい構図を描いていたのでしょう。笑

 

 

一部を除いて、ほとんどが実地測量だったみたい。

 

これによって「隠田(おんでん)」と呼ばれる、課税逃れの田んぼを取り締まる意味もありました。

 

太閤検地は、全国的な脱税取り締まり策でもあったんですね。

 

 

(2)土地の権利関係がスッキリした!

太閤検地の重要な施策の一つに「一地一作人の原則」というものがあります。

 

これは読んで字のごとく「一つの土地に対して一人の耕作人しか認めませんよー」という意味。

 

そして、その土地の耕作権を認められた人が年貢を納めるというわけなのです。

 

 

一地一作人の原則、あるとっても重要な意味を持っています。

 

 

それが…荘園制度を終わらせたということ!

 

 

おお!

 

 

平安時代から続く荘園制度は、鎌倉時代室町時代にかけて土地の重層的支配を生んでいました。

 

農民が荘園領主に年貢を払って、そこからお偉いさんに納税して…というような状態。中間搾取のオンパレード!おまけに、地頭やら守護やらが絡んできて…グッチャグチャ。

 

マージンをじゃんじゃか抜いて、重層的にうま味を共有するっていうのが荘園制度の根幹だったわけです。

 

 

これに対し、一地一作人の原則は「農民→政権」っていう分かりやすい納税の仕組み(実際には中間組織があったみたいですが)なので、荘園制度が終わりを告げたのでした。

 

 

(3)面積や測量の単位を統一した!

今更?!って感じですけど。笑

 

太閤検地が行われるまで、面積や測量の単位が各地でバラバラだったんですね…!

 

 

逆説的に考えると、各地バラバラの単位でも問題ないくらい、各地の支配者によってテキトーな徴税が行われていたってこと…。

 

 

当時の農民の状況を自分に置き換えてみると…

 

ある日預金通帳を確認したら、うん10万円引き落とされている!「何だこれは?!」って思ったら、備考欄に「納税」って書かれてるみたいな感じ?!

 

今お話ししたのは極論ではありますが、基準を決めるというのは納税の基本だと思うんですよね。。笑

 

 

一例としては、米を測量する際に京都で使われていた「京枡」を統一して使うようになったことが挙げられます。

 

米の量を測る枡の大きさすら統一されていなかったのね…笑

 

 

こうした流れの中で誕生したのが、年貢を取り立てるための基準となる「石高(こくだか)」という単位です。

 

「加賀百万石」などでおなじみの単位。

 

面積に推定収穫量をかけることで、その土地における生産性を表す単位=石高を決めました。

 

そして、石高を基準として年貢額を定めたのです。

 

 

石高は土地そのものの価値を表すようになり、やがてその土地を支配する大名のランクづけにも結びつくようになっていきます。先ほどの「加賀百万石」は前田氏の力を表す言葉でもあり、その代表例ですよね。

 

 

こうした課税における基準づくりというのも、天下統一を達成した豊臣秀吉だからこそ成し得た業と言えます。

 

というか、むしろ天下統一を達成した人だから基準が必要だった、とも言えますけど。

 

 

(4)農民が土地の権利を獲得した!

そして最後の重要なポイントが、農民が土地を占有的に耕す権利を獲得したということです。要するに、農民に対して土地の所有権を認めたということですね。

 

これって現在では当たり前の話ですけど、歴史上は画期的な話。

 

グチャグチャだった土地の権利関係をスッキリさせて、「この土地はあなたのものね」と決めた上で、そこの所有権と耕す権利を農民に与えたのです。

 

 

しかし、裏を返すと「農民を土地に縛りつけた」とも言えますよね。

 

与えられた土地の石高は豊臣政権に把握されているわけで、決められた年貢をしっかり納めなければいけませんから、農民は必死にその土地を耕さざるを得ません。

 

 

秀吉が実施した施策として広く知られる刀狩令と合わせることで、「農民は農民、武士は武士」というように、身分をハッキリと分けることにも繋がりました。

 

いわゆる兵農分離です。

 

 

当時の年貢率は「二公一民(収穫量の2/3を領主に納める!!!)」とも言われ、農民の負担は非常に大きいものでした。

 

それでも、農民たちは刀狩を受けていますから一揆を起こせない…。

 

秀吉の巧妙な支配策が見えてくるわけです。。

 

 

なかなかエゲツないことやってる…。

 

 

 

このように、税制度に革新的な変化をもたらした太閤検地

 

全国的に行われた検地の結果は、江戸時代においても参考として用いられたそうで、実に300年近く日本の税制の根幹を成していくことになるのでした…。

 

 

そして、時代は江戸の世へ…!!

 

 

 

 

 

というところで…ごめんなさい。

やっぱり3回では終わりませんでした!!!!笑

 

 

次回こそ完結編ということで、江戸以降の税の歴史を探っていきます!

 

 

《後編②へ続く》

 

 

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 ▽

chimon

 

 

(参考WEB)

・日本税理士連合会「大学生向け講義テキスト−歴史版−」

http://www.nichizeiren.or.jp/wp-content/uploads/doc/cpta/business/education/11-5%20lecturetext2019university_historic.pdf

 

 

※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。