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【2020年3月3日】ひな祭り、お前もか〜ひな祭りの成り立ちと商売の関係〜

《この記事の文字数:約6,700》

 読み応えアリ!

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三角関係。笑

どうも、chimonです。

 

今日3月3日は「ひな祭り」ですね!

 

「桃の節句」とも言いますが、この風習の成り立ちを紐解いていくと、ビックリするくらい姿形が移り変わっていることが判明…。

 

「今の形になったのはいつ?」「何かめっちゃ商売っ気あるやん」などなど、ひな祭りについて深掘りしていきたいと思います。

 

 

1. もはや別の行事じゃないか

(1)はじまりはいつも中国

古くから日本に伝わる風習を辿っていくと、だいたいあの国に行き着きますよね。

 

 

そう、皆さん!声を合わせて!

 

せーのっ!

 

 

 

中国ーーーーー!笑

 

 

 

ひな祭りもご多分に漏れず、中国出身の行事。

 

 

ただ、恐ろしいほど現在の「ひな祭り」とは違うんですけどね。笑

 

 

もともと3月3日は「上巳(じょうし・じょうみ)の節句と言い、古代中国における節句の一つでした。

 

「上巳」という名前から分かる通り、当初は3月最初の「巳の日」に行われていたようですが、かなり古い段階で3月3日に固定されたそうな。

 

陰陽思想では、奇数が縁起の良い「陽」の数字とされていますが、「重なり過ぎると逆に不吉ーぅ」的な思想があるらしいのです。だから、奇数のゾロ目になる日を節句として忌払いの行事が行われていました

 

その中で最も大きな奇数が重なる9月9日は「重陽節句」と言われるわけですが、それと同様に3月3日も節句と考えられ、いつの間にやら「上巳」と結びついたと考えられますね。

 

 

古来中国で上巳の節句と言えば、川でお祓いをして身を清めるというのが習わしでした。

 

ただ、これは3月3日に限った話ではなく、節句ごとに行なっていたもののようです。

 

 

この風習はやがて洗練されていき、「曲水の宴(きょくすいのうたげ)」と呼ばれる行事になります。禊をするとともに、流れ行く水に盃を浮かべて宴会するんですって。

 

あら、雅だこと。笑

 

 

(2)いやー、日本書紀は怪しい

日本も、当初は曲水の宴が催されていた模様。

 

そうなると、中国から伝わったのはいつか、というのが問題ですよね。

 

 

一応日本書紀に記載があって、第23代顕宗(けんぞう)天皇の時代には行われていたとされているのですが…

 

顕宗天皇は実在性がかなり疑わしいので…笑

 

このブログのスタンスとしては、日本書紀が成立した時代でもある奈良時代あたりに伝来したということにしておきます。

 

 

疑ってごめんね、日本書紀。笑

 

 

日本の曲水の宴はさらに進化を遂げ、宮中で行われる『流水に浮かべた盃が目の前を通過するまでに歌を詠む遊び』(茂木貞純監修『日本人なら知っておきたい![図解]神道としきたり辞典』P74より引用)となりました。

 

はんなり…雅…。

 

 

にしても、全然ひな祭りの影が見えませんな…!!!!!

 

 

(3)ひとがたを流そう

そんな曲水の宴とともに出てきた風習が、「人形(ひとがた)」と呼ばれる草木や紙で人の形を模したものを川に流す、というもの。

 

人形で体を撫でることで厄を祓い、そのまま川に流して「厄さん、バイバーイ!」ってことですね。この時点で「幼子の体を撫でる」という風習になっていた、という説も。

 

一説では、平安時代には上巳の節句のお決まりとして定着していた様子。

 

 

なお、今でも「大祓(おおはらえ)」という、全国の神社で見られる神事の中で、人型の紙を川に流すことで厄を払う風習が残っています。古来、ひとがたは「形代(かたしろ)」とも呼ばれ、人間の身代わりとされてきました。

 

 

ということは、「ひとがたを流す神事」と「上巳の節句のお祓い」っていう別の神事が、平安時代あたりに結合しちゃった!って可能性が高そう。笑

 

この辺りの経緯は、いろんな資料を見ても諸説ありまして…明確に何が起源なのかは分からんのです…。

 

 

3月3日には「流しびな」と呼ばれる風習も各地で見られますが、まさにこの「ひとがたを流す」というところから発展していったと考えられますね。

 

 

2. 一方その頃「ひな」さんは…

(1)平安版おままごと

上巳の節句にひとがたを流す風習があったことは分かりましたが、もう一つの疑問が「何でまたおひな様を飾るようになったんじゃい?」という点。

 

そもそも「ひな」って何?ってところからお話ししましょう。

 

 

「小鳥のひな」という言葉からも分かりますが、「ひな」とは小さく可愛らしいもののこと。

 

 

「ひな人形」の「ひな」とは、平安時代に貴族の子どもたちの間で流行ったという「ひな遊び」に由来するようです。

 

 

実際、日本文学最古の長編物語といわれる「宇津保物語」や、その後の「源氏物語」「枕草子」なんかにも「ひな」が登場します。

 

江戸時代の風俗について記した「守貞謾稿(もりさだまんこう)」に、下記のような記述がありました。

古は雛遊びと云ひて、今日のみあらず平日にこれをなす事、『源氏物語』末摘花の巻にあるは正月八日、紅葉賀正月、野分・夕霧ともに八月なり。『宇津保物語』には、季の詳らかならざると、冬の雛遊びあり。これらは今世、幼稚の遊びに土偶人等を並べ、小さなる鍋釜その他庖厨の具をもつて、まゝごと、飯事なり、平日の遊びすると同じきなり。

 

喜田川守貞著、宇佐美英機校訂『近世風俗志(四)(守貞謾稿)』P188-189より引用 

 

うんうん。これを読む限り、平安時代に子どもたちが遊んでいた「ひな遊び」は、まさに「平安版おままごと」だった様子。

 

まあ今でもそのイメージはありますが、ひな遊びは女の子の遊びだったようですね。

 

 

(2)そうか、女の子の行事じゃなかったのか

ここまでで、鋭い人なら気づくのではないでしょうか?

 

平安時代の時点で、上巳の節句に行われていた「ひとがた流し」には、どこも「女の子の祭り」っていう要素がないことに!

 

で、さらに考えてみると…「ひな遊びは女の子の遊び」…

 

なるほど…

 

この2つ、結びつきますね?と。笑

 

 

どうもそういうことらしいですね。。笑

 

 

(3)天倪と這子

「ひな」とは別に、平安時代には子どもの魔除けとして、枕元に「天倪(あまがつ:天児とも書く)」という人形を置く風習が生まれます。

 

実際には、2本の竹の棒を束ねて人の形を模しただけの簡単なものだったようですが、そこに衣装を着せることで幼子の身代わりにしていたんですね。

 

こうなると「形代」や「ひとがた」といったものと変わりがない気がしますが、要するに子どもの健康を祈るためのものが「天倪」と呼ばれていたんでしょう。

 

 

一方で、上巳の節句の際、幼子に贈られる人形としては「這子(ほうこ)」というものもありました。

 

天倪と異なり、白い絹の中に綿を詰めて作られたそうな。

 

よりぬいぐるみに近い感じ?

 

で、この這子は子どものおもちゃにもなったみたい。まさにぬいぐるみだ!

 

 

室町時代になると、天倪=男の子、這子=女の子と見立てて一対で飾るようになったそうで。

 

これこそが「立ちびな」の起源と言われているようです。

 

 

つまり、この時点でも特に「女の子のため」じゃない。というか、ひな祭りじゃない。笑

 

 

3. 謎が多いよ、ひな祭り

(1)とりあえず起源は江戸時代なのか…?

「天倪」「這子」「ひな」という要素は揃いましたが、ちっともピースがはまりません。笑

 

それもそのはず、正直この辺りはどうやって融合したのか謎!!!

 

 

一説では「室町雛」と呼ばれる座りびなが誕生したことで、現在のひな祭りに通じる原型ができたとも言われているのですが…

 

「何で室町雛が誕生したのか?」

「名前通り室町時代に誕生したものなのか?」

 

しかも、室町雛は大人の鑑賞用だったとも言われていまして…

「いきなり大人用になったのはなぜなのか?」

 

などなど、疑問は尽きません!!!諦めます!!!笑

 

 

一つだけハッキリしているのは、江戸時代には「ひな祭り」なるものが全国に定着したということ!

 

 

…時代が飛んだっ?!笑

 

 

(2)気を取り直しちゃおう

気を取り直して、江戸時代です。笑

 

正しくは江戸時代の少し前、安土桃山時代にかけて「天倪」「這子」「ひな」が立派なものになっていた模様。

 

江戸時代になると、製作技術がさらに進歩して、今に近い人形になっていたみたいですね。

 

 

ところで、ここまで来ても「ひな祭り」にはなっていません。あくまでも「上巳の節句」ですから。

 

 

「ひな祭り」が広まるきっかけとなったのが、江戸幕府によって上巳の節句を含む五節句が、公的な祝日に定められたこと。

 

五節句とは、次に挙げる5つの節句です。

 

1月1日は元日なので特別な日とされ、7日に節句が設定されています。他は、全て奇数のゾロ目ですね。

 

11月11日はない…ポッキーの節句…笑

 

ひな祭りの風習自体は安土桃山時代に誕生したようですが、全国的な行事として定着したのには「上巳の節句が祝日化した」という背景があったのです。

 

(3)人形もったいなくない?

人形の製作技術が進歩したことにより、かつては水に流していた人形を保存しておくという風習が生まれた模様。

 

「紙とか木とかで簡単に作った人形なら良いけど、丹精込めて作った人形は流すにはもったいなくね?」ってことでしょうか。笑

 

この時に、古くから女の子の間で親しまれていたひな遊びの人形が使われるようになり、「女の子を祝う祭り」として定着するようになったと考えられます。

 

 

江戸時代初期は、形代的な役割を持つ立ちびなや座りびなが飾られていました。立ちびなと言えば、男女一対で飾ったのが由来でしたよね。

 

ということで、当初は男女一対で飾るのが一般的だったみたいです。

 

 

この時代には、男女一対で飾るひなを「内裏(だいり)びな」と言うようになったそうな。

 

 

「お内裏さ〜まとおひなさま〜

 ふ〜たりならんでスガシカオすまし顔〜♪」

って歌になってますが、お内裏様って本来男女ペアのことを指すので…

この歌詞通りだと、ひな飾りの最上段で壮絶な三角関係が繰り広げられることになっちゃうみたいですね。笑

 

4. ひな祭りの風習が完成

(1)嫁入り道具としてのひな飾り

最初は質素だったひな飾りも、有力武家などの高貴な女性の嫁入り道具として考えられるようになり、どんどん煌びやかさを増していきます。

 

あまりに豪華になっちゃったもんだから、贅沢しすぎってことで幕府から禁令が何度も出たほど。

 

大きさもどんどんデカくなっていたらしく、幕府の法令によって「ひなの大きさは8寸(約24cm)まで」と決められたそうな。。笑

 

 

元は、ある程度大きくなった女の子の成長を祈る行事だったようですが、江戸時代中期になると、節句を迎える赤ちゃんを祝う「初雛祝い」が加えられるようになりました。

 

当初はお内裏様だけだったひな飾りが、2段・3段と増えたのもこの頃。

 

江戸では五人囃子も誕生し、風習もひな飾りも現在と近い形になってきます。

 

 

(2)菱餅と白酒にまつわる小話

ひな飾り以外のひな祭りにまつわる風習の数々も、江戸時代には固まっていたと考えて良さそうです。

 

 

中でも、諸説たっぷりで由来不明なのが菱餅

 

現在では「桃色・白・緑」の三色ですが、どうもこれは後付けらしいのです。

 

もともとは、古代中国で上巳の節句の際に食べられていた、母子草(ハハコグサ春の七草にある「ゴギョウ」のこと)を練りこんだ緑のお餅が由来だそう。

 

つまり、緑一色っていうのが本来の姿だったんですね。

 

 

江戸時代になると「母と子(母子草)を臼と杵でつくってどうなのよ?!」という、武士あるある(?)な縁起担ぎの影響でヨモギが使われるようになった模様です。笑

 

 

ただですね、ここで『守貞謾稿』のとある一説に注目したいのです。

菱餅、三枚。上下青、中白なり。 

 

喜田川守貞著、宇佐美英機校訂『近世風俗志(四)(守貞謾稿)』P204より引用 

 

ん…?

 

 

上下青…?

 

 

あれ?????

 

 

そうなんです!江戸時代の時点では、緑と白の二色だったようなんですね!

 

ちなみに『守貞謾稿』が書かれたのは、1830年1860年代にかけてなので、江戸時代も末期と言うべき時期。よって、江戸時代を通じて菱餅は二色だった、と言うことができます。

 

桃色が追加されるのは、明治時代のことだそうですよ。あら、ビックリ。

 

 

 

もう一個、江戸時代に広まったのが「白酒」を飲む習慣。

 

室町時代あたりから、桃の節句ということで桃を浸したお酒を飲む習慣があったことより、江戸時代に変化したものだそうですが…

 

これについても『守貞謾稿』に面白い小話が書かれていました。

 

江戸・大阪・京という三都で白酒は飲まれていたそうですが、特に江戸では「雛市」が始まる2月25日に、鎌倉町(今で言う大手町北側の「鎌倉橋」周辺)の豊島屋で販売されました。

www.toshimaya.co.jp

 

『守貞謾稿』によると『荒くして辛味』(何ちゅう評価)だけど、とにかくたくさんの人が買いに訪れるそうで、あっという間に売り切れて手ぶらで帰る人も大量にいたらしい。笑

 

(3)雛市

江戸時代に盛り上がったのが、先ほどちょっと触れた「雛市」

 

その名の通り、ひな飾りをはじめとした上巳の節句用品を販売する期間限定市です。

 

 

2月25日から3月4日・5日あたりにかけ、三都で見られたそう。

 

特に江戸の雛市は盛り上がっていて、中店(なかだな)と呼ばれる屋台みたいなのがたくさん出ていたみたい。

 

大通りの中ほど、両側に屋台が出ている状態。通り沿いには、通常の店舗も立ち並んでいるけれど、沿道のお店もその時ばかりはひな祭り用品を販売して、がっぽり儲けていたそうです。笑

 

考えてみれば「中店」って「なかみせ」とも読めるから、正に浅草の仲見世通りみたいな構造を想像すればいいのかも。

 

 

ちなみに、4月25日からは端午の節句にまつわる用品を販売する「幟市(のぼりいち)」も開かれていたようですが、『守貞謾稿』曰く、「ひな祭りほどは賑わってないよね〜。調度品も美しくはないよね〜。」だそう。

 

この理由として挙げられているのが、江戸の女性の多くは武家に奉公しているので、見栄っ張りな武家の様子を見習う傾向にあったからというもの。

 

ひな飾りは武家子女の嫁入り道具だったわけで、奉公しに行くお家に飾られているのを見て、「あら綺麗!欲しいわっ!!」ってなったんでしょうね。笑

 

 

作者は『武の国に似合はず、女事に昌(さかん)なるなり』と、捨て台詞のように書いています。武士の国なのにね!!ってことでしょうか。笑

 

 

雛市に関してもう一つ面白い話が書かれていて、京や大坂と比べても江戸の人形や調度品は精度が高かったらしく、いわゆる中古品市場も機能していたらしいのです!

 

新品を買ったら高そうですもんね…笑

 

雛市にも中古品を扱う「ひな飾り版ブックオフ」があったみたい。ちゃんと新品のお店と区別されていたみたいなので、お客様目線だったんでしょうね。

 

 

ただ、京や大坂ではほとんど見られなかったそうな。商品の精度が高かったというだけでなく、町人気質の江戸っ子だからこそなのかもしれませんが。大坂は…新品売りたかったのかな。笑

 

 

精度という意味では、現在でも節句人形の多くが岩槻や鴻巣といった埼玉県産ですよね。実際、関東で人形技術が高かったというのは想像に難くないです。

 

 

5. やっぱりそう来たか、ひな祭り

江戸時代に定着したひな祭りですが、ひな飾りは中古品でもある程度高級品。

 

三都の市中ではある程度広まったとしても、全国的に、しかも庶民まで広がったとは言い難い状況でした。

 

それが完全に広まったと言えるのが明治時代。

 

 

これに大きな役割を果たしたのが、明治末期から昭和初期にかけて成長した百貨店でした!

 

 

百貨店は、新たに消費者層となった中間層に訴えかけるべく、江戸時代の風流な風習を「カッコいい、イケてる趣味」として売り出したようなのです。

 

この中の一つのメインとも言えるのが、桃の節句のひな人形でした。

 

 

「風流な趣味」だったひな人形が、百貨店の販売戦略によって大衆化したということが、全国にひな飾りを広めるきっかけになったんですね…。

 

 

初詣、いちご、バレンタイン…そして、ひな祭り、お前もか。笑

himekuri-nippon.hatenablog.com

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6. さいごに

いやあ、調べてみると諸説だらけで、正直全然スッキリしない…笑

 

とは言え、それだけ色んな歴史的背景で広がった風習だってことなんでしょうね。

 

まさかの大作になってしまいましたが…これで皆さんも「ひな祭りマスター」ですね!笑

 

 

疲れたので、終わり!!

 

 

▲ ▲

・ ・

 ▽

chimon

 

 

(参考文献)

・茂木貞純監修『日本人なら知っておきたい![図解]神道としきたり辞典』PHP研究所, 2014

喜田川守貞著、宇佐美英機校訂『近世風俗志(四)(守貞謾稿)』岩波文庫, 2001

武光誠監修『マンガでわかる天皇池田書店, 2018

 

※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。