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【2020年2月28日】確定申告の季節到来!日本における税の歴史《中編》

《この記事の文字数:約4,800》 

 ちょっと読み応えアリ

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このスピード、後編で終わるのか?!笑

どうも、chimonです。

 

三日連続って言ってたはずなのに、早くも1日穴を開けてしまいましたが…

 

今日は「日本における税の歴史」中編をお送りします!

 

今回扱うのは、鎌倉時代室町時代

 

前編をまだ読んでいない、という方はこちらからどうぞ!

himekuri-nippon.hatenablog.com

 

 

6. 守護と地頭!

(1)年貢・公事・夫役

前編では平安時代までの税制度についてお話ししました。

 

公地公民に基づく「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」が崩壊し、土地の私有が認められたことに味をしめた有力者たちによって、各地に荘園が現れたのでした。

 

公地公民の時代は、大和朝廷に対して租庸調という税を払う義務がありましたね。

 

 

ただ、荘園が全盛期を迎えると、そこで働く農民たちは荘園領主から別の税を課せられるようになります。

 

それが「年貢」「公事(くじ)」「夫役(ぶやく)」と呼ばれる税。

 

  • 年貢:田んぼなら米、畑なら農作物などで納める税。
  • 公事:手工業品や特産品で納める雑税。
  • 夫役:労働で納める税。

 

まあ、それぞれ租庸調に対応しているとも言えるので、納める先が変わったということでしょうかね。

 

 

(2)守護と地頭、誕生。

平安時代の終わり、かの源頼朝さんによって守護地頭が置かれます。

 

めっちゃ日本史の授業で聞いた!!なんだっけ?!!笑

 

 

とっても簡単に日本史の授業のおさらいをしましょう。笑

 

【守護】

国単位で置かれた警察のような役職。謀反人や殺人犯の逮捕といった役割のほか、当初は国内の地頭の監督も担当していた。

 

【地頭】

荘園や公領ごとに置かれた役職。年貢の徴収や治安維持を担当。

 

ざっくり言うとこんな感じ。

 

守護は、もともと国司が担当する国の治安を維持するため、有力な武士を守護人として任命したのが始まりとも言われているらしいです。

 

平安末期、平家勢力を討伐するために設置された臨時の役職「惣追捕使(そうついぶし)」が置かれます。惣追捕使は、各国の警察・軍事を司る役職で、まさに鎌倉時代の守護の前身となった役職。

 

ただ、臨時の役職だったので、頼朝も当時の後白河法皇の要請に基づいて、一度はちゃんと業務停止してるんですよね。

 

 

地頭の前身「国地頭」も平家勢力の討伐という理由で、同時期に設置され、やっぱり律儀に停止されています。

 

 

でも、朝廷と幕府側で協議がなされたのか、1191年にあらためて守護・地頭の設置が認められました。

 

 

守護・地頭の設置年代をどこと見るか、何を持って幕府成立とするかなどややこしい面があることから「いい国作ろう」だの「いい箱作ろう」だの、鎌倉幕府の成立年代には色々な説があるんですね…。

 

 

頼朝は、自らと主従関係を結んだ御家人(ごけにん)を守護や地頭に任命します。

 

「御恩と奉公」ってやりましたよね?

 

忘れた人も、何とか思い出しましょう。笑

 

 

とは言え、鎌倉時代初期の幕府っていうのは、関東を中心とした東国までしか支配権がなかったと言われています。

 

 

(3)守護地頭VS荘園領主

この理由というのは、ある意味とても分かりやすいお話。

 

 

守護と地頭の役割を考えてみると、明らかに対立するだろう役職の人がいますよね?

 

 

 

そう、国司荘園領主たちです。

 

 

 

守護や地頭は幕府が任命した役職、国司荘園領主(「本家」と呼んでいました)は朝廷側の役職。

 

どっちも国、もしくは荘園を監督する役割ですから、完全にバッティングしてます。笑

 

 

「頼朝が任命したヤツなんて置くんじゃねえよ!!」と、中央の貴族などが猛反発!

 

結果、当初の守護や地頭は、平家から没収した領地や謀反人の領地にしか置けなかったようです。

 

平安時代が終わったばかりのことですから、朝廷の権力はまだ絶大。京に近い西国は、朝廷の力が及ぶ荘園が多くて、頼朝も支配下に置くことができなかったんですね。

 

 

(4)ワン・ツー・ツー・ワン

このような状況に変化が訪れたのが、1221年承久の乱です。

表題が気になる人はQuizKnockの動画を観てね。笑


東大生が年号の語呂合わせを考えたらクセ強すぎww一番覚えやすい語呂はどれ?

 

まーた、日本史だよー。笑

 

この事件を簡単に言い表すと、「朝廷の実権を取り戻そうとした後鳥羽上皇率いる朝廷軍が挙兵し、鎌倉幕府軍に負けた戦い」ってところ。

 

サラッと書きましたが、なかなか大事件。

 

 

なぜなら、さっきからお話ししている通り、西国は朝廷の力が強かった。

 

だから、幕府は東国支配に甘んじていたんですね。

 

 

そんな中、幕府が朝廷軍を打ち負かしたということは…幕府の支配が全国に及ぶことになったということなのです。

 

 

後鳥羽上皇は、西国に広がる莫大な荘園を支配下に入れていたのだそうで。

 

そこに地頭がやってきて、朝廷に税を納めさせないよう邪魔をするという事態が頻発していたようです。

 

これこそが、承久の乱の大きな引き金になったんですね。。

 

 

税金が、世を揺るがす大事件の原因になっていたという衝撃的な事実!!

 

(5)商業の発展と新しい税

細かい話は省きますが、特に平清盛政権以降、中国との日宋貿易が本格化しました。

 

鎌倉時代は公式な貿易こそなかったものの、民間貿易が推奨されていました。

 

当時の主な輸入品は宋銭。要するに貨幣です。

 

 

貿易の結果、日本に大量の貨幣が流通することなったんですね。

 

 

おまけに、この頃になると農業生産性が上がり、農業の副業として手工業が営まれるようになります。

 

「公事」として荘園領主に納めても、まだ余る手工業品。

 

 

商品ある。お金ある。

 

 

 

売ろう!

 

 

 

そうなりますよね。笑

 

 

 

こうした背景から、鎌倉時代に商業が発展荘園領主も「チャンス!」と言わんばかりに、商人たちの組合(座)に荘園内での独占的な販売権を与える代わりに、「座役」という新しい税を課すようになりました。

 

商業に対する税が登場するのは、初ですね!

 

 

7. 税金包囲網

(1)泣く子と地頭には勝てぬ

表題の言葉、聞いたことありますよね?

 

この言葉はなぜ生まれたのか?

 

 

それは、承久の乱以降、全国の荘園に地頭が置かれるようになり、地頭が権力を獲得していったからなのです。

 

 

荘園に地頭が置かれると、地頭VS荘園領主の戦いが勃発します。

 

 

困った荘園領主は、幕府に「アイツ、何とかしてよ〜!」と訴えました。

 

意外なのは、幕府が結構中立的だったということ。

 

 

普通に考えると、幕府側が任命した地頭に有利な判決を出しそうですが、実際には荘園領主が勝利するパターンも多かったそう。

 

あんまり地頭が地方で力をつけちゃうと、幕府的にも危ないって算段だったんでしょうかね?

 

 

ところが!

 

 

地頭は武士です。

 

「判決で負けたなら、武力で鎮圧してやれーーーーーーぃ!」ということで、負けようが何だろうが好きにやろうとします…。

 

 

結果、各地の荘園で「地頭請(じとううけ)」「下地中分(したじちゅうぶん)」といったものが見られるようになりました。

 

 

地頭請とは、地頭に荘園の管理を任せる代わりに、一定の年貢を荘園領主に納めるようにする仕組みのこと。

 

地頭は荘園を管理できるので年貢を徴収できるし、荘園領主も作物の豊凶作に関係なく一定の収入を得られるため、結構win-winだったみたい。

 

 

下地十分っていうのは、荘園を2つに分けて、片方を地頭にくれてやる!って話。笑

 

全部を乗っ取られるくらいなら、半分地頭にあげて、残りの荘園を確実に守るほうが良いという、とっても保守的な考え方。この時点で、いかに国司の力が弱まっているかということが見て取れます。

 

 

で、初めにお話しした「泣く子と地頭には〜」って言葉。

 

特に地頭請の場合。

 

あなたが地頭だったとして、どうやって自分の利益を増やします?

 

 

一番手っ取り早い方法が、農民から年貢を大量にぶん取ること!!!

 

 

領主には一定額納めなきゃいけないわけで、自分の取り分を増やすにはそれしかありません。そうなれば、農民からできる限りの取り立てをしてやろうという心が芽生えます。

 

 

武力も辞さない地頭の取り立てですから、まあエゲツない奴もいたようで…。

 

 

それが「地頭には敵わん」という言葉になってったんですね…。

 

 

(2)守護の台頭

鎌倉時代は大きな権力を誇った地頭ですが、室町時代になると守護の方が徐々に力を増していきます。

 

これは、鎌倉時代室町時代において、守護に与えられた権限が異なっていたことが原因。

 

 

鎌倉時代の守護は最初にお話しした通り、あくまでも警察的な存在でした。

 

室町時代に入っても、当初は警察的役割+検察的(司法的)役割を持つ程度。地頭が経済的な部分を担っていたことに変わりはありません。

 

 

ところが!

 

室町幕府というのは当初から権力がイマイチでして、将軍がドーンと構えているというよりは、複数の守護を兼ねる管領(かんれい)をはじめ、各地の有力者と連合政権を築いているような状態。

 

そんな感じですから、いつしか各地で紛争が起こるようになります。

 

幕府としては、幕府に仕える守護に戦力を保ってもらう必要がある…。

 

 

ということで、1352年「半済(はんぜい)」という権利を守護に与えました。

 

半済とは、簡単に言えば「荘園や公領において、守護が年貢を半分徴収して良いよ!」という制度。徴収した年貢を兵糧として使ってもらうことが目的でした。

 

だから、もともとは紛争の激しい地域限定、かつ期間限定の策のはずでした…。

 

じゃあ戦乱が終わったら権利を手放しますか?って話。笑

 

 

「一度認めたんだから、ずっと認めろよ!」

「なんであいつだけ認めるんだよ?!俺も認めろ!」

となります。笑

 

 

結果、守護は半済の権利すら持つようになり、経済的な実権まで握ることになるのです。

 

いつしか、守護は地頭や領主すらも支配下に置くようになり、室町時代中期には守護大名と言われるまでになっていきました。

 

これこそ、戦国大名誕生の大きなきっかけ…。

 

 

(3)また税金ですか?

そんな室町時代の納税は、相変わらず年貢が中心。

 

加えて新たな税金がたくさん誕生します!

 

鎌倉時代後期〜室町時代に加わった税金》

  • 段銭(たんせん):国家行事や神社の造営などに際し、地域限定で課せられる臨時税。鎌倉時代が初出だが、室町時代に本格化。
  • 棟別銭(むねべつせん):朝廷儀式や寺社の修繕などに際し、建物ごとに課せられる臨時税。これも鎌倉時代が初出だが、室町時代に本格化。
  • 土倉役(どそうやく)、酒屋役(さかややく):文字通り、土倉や酒蔵に課せられる税。商工業の発展により、課税対象になった。
  • 関銭(せきせん):関所で課す通行税。
  • 津料(つりょう):元来は港湾施設維持のため、入港する船に対して課せられた通行税。

 

段銭や棟別銭は、守護に徴収権が与えられるようになったようで、守護大名の経済力アップに一役買いました。

 

臨時税だったはず…だった…笑

 

まあ想像通りですが、いつの間にやら事あるごとに徴収されるようになっていったみたいですね。。

 

 

それにしても、誰が支配しているかということに関係なく、やっぱり中心は年貢なわけで。

 

というか、新しい税金も商工業者に対するものがほとんど。

 

 

上が誰に変わろうが、庶民が税金に喘ぐという構図は変わらないのですね…世知辛い…。

 

 

商工業が発展すれば、そこに対する税金が新たに生まれる。

 

こういう流れはどの時代でも見られることで、酒税・たばこ税・自動車税ガソリン税どこから税金取れるかなー?って探す権力者と、抜け道を探す生産者の戦いは常に行われてきた模様です!笑

 

 

(4)そして戦国の世へ

力をつけた守護大名や、守護の留守中に国を守り、守護を超える力を持った守護代(しゅごだい)。

 

1467年から始まった応仁の乱やその後の内乱によって、権力が失墜した室町幕府に代わり、独自の地域支配を強める守護大名が現れます。

 

彼らは経済力と武力を持って、他勢力に支配されない戦国大名へと変貌を遂げていきました。

 

戦国大名の誕生は、戦国の世の訪れを意味していたのです。

 

 

《後編へ続く》

himekuri-nippon.hatenablog.com

 

 

 

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 ▽

chimon

 

 

(参考WEB)

・日本税理士連合会「大学生向け講義テキスト−歴史版−」

http://www.nichizeiren.or.jp/wp-content/uploads/doc/cpta/business/education/11-5%20lecturetext2019university_historic.pdf

 

 

※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。