【2020年1月9日】伊勢神宮へエア参拝!(知っておきたい日本の社寺シリーズ1)《後編》
《この記事の文字数:7,014》
読み応えアリ!
どうも、chimonです。
三日間にわたりお送りしてきた「知っておきたい日本の社寺シリーズ1」も、今回でいよいよ完結!
ここまで読んだら、あなたも伊勢の神宮へ参拝したも同然です。笑
前編・中編はこちらからどうぞ!
himekuri-nippon.hatenablog.com
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では、さっそく内宮(ないくう)参拝からスタート!
4. エア参拝その3〜いざ内宮!〜
(前回の続きから)
(2)内宮正宮と神社建築のお話
御手洗場(みたらし)で手を清めたので、そのままいよいよ内宮の正宮(しょうぐう)にご参拝しましょう。
長い石段を上がると…
内宮の正宮は、何とも言えない神聖な空気が漂います。これが天照大御神(アマテラスオオミカミ)を祀る、日本最高位の神社の神格、というものなんでしょうか…。
外宮の正宮同様、ここでも「私弊禁断」。(詳しくは「前編」を参照!)
個人的なお祈りはせず、お賽銭をする必要もありません。ただ、神への感謝とご報告をします。
★神社建築について
ところで、神宮の社殿ってちょっと変わった建物だな、って思いません?
正殿は写真が撮れないので、同じ作りをしている2つの建物の画像をご覧ください!
三角形の大きな藁葺きの屋根の上に、ピョコンと触角のような木が突き出ていて…上には謎の丸太が何本か置いてあります。上の倉庫を見ると、高床式になっていることもわかりますね。
このような神宮の建築様式を「神明造(しんめいづくり)」と呼びます。
何となく想像つくと思いますが、縄文時代から弥生時代にかけての遺跡でよく見られる「高床式倉庫」から派生したものと考えられ、出雲大社(いずものおおやしろ)に代表される「大社造(たいしゃづくり)」と並んで、最古の神社建築と言われているんです。
まーた、ややこしい話だよー
ということで、お得意のゆる〜い絵をご準備しました。笑
本を開いたまま伏せたような屋根の形を「切妻造(きりづまづくり)」と呼び、屋根の三角になっている方の面を「妻」、まっすぐな方の面を「平」と言います。
神明造は平の方に入口がある「平入(ひらいり)」であるのに対し、大社造は妻の方から入る「妻入(つまいり)」になっているのが特徴。
もっとたくさん違いはあるんですが、主にはこんな感じです。この2つを元にして数多くの派生形が誕生して現在に至っています。
神社建築も、そのうち特集したい…。
さらに、内宮・外宮の正宮は明治以降同形式の社殿建築が禁じられているため「唯一神明造」という、唯一無二の建築様式なんです!
★内宮と外宮の社殿には違いがある!
ところで、内宮と外宮はセットというイメージがありますが、建築に少し違いがあります。
残念ながら、内宮正宮はまともに写真が撮れないので…先ほどご紹介した内宮の倉庫(上)と、外宮正宮(下)の写真を続けてご覧ください!
屋根の上に違いがあるの、わかります?
わかりづらいですよね〜。笑
大きな違いが2つ!
・屋根の上にある丸太の数
この丸太は「鰹木(かつおぎ)」と呼ばれます。鰹節に形が似ていることから、この名前がついたんだとか。なんで鰹節だったんですかね?笑
上の内宮倉庫は、鰹木の数が6本なのに対し、下の外宮正宮は5本。
そう、内宮所属の建物は偶数なのに対し、外宮所属の建物は奇数になっているのです!
(正殿は内宮10本、外宮9本)
・千木(ちぎ)の形
もう一つの違いが、屋根の上端にあるV字状の木材の形。この部材を「千木(ちぎ)」と呼びます。
これまた、ゆる〜い絵でお届けしますね。笑
内削ぎ=内宮、外削ぎ=外宮というわかりやすい違い。これを知っておくだけで、建物を見る目も変わりますよね!
なぜこのような違いがあるのかははっきりとしないですが、一説では、先に鎮座していた内宮(天照大御神)に配慮する形で、外宮は鰹木を1本減らした(10本→9本)のではないかと言われています。
千木も形が被らないようにした、ってことなのでしょうかね?
神宮のWEBサイトにまとめられているので、よければ是非ご覧くださいね。
(3)別宮「荒祭宮」
正宮への参拝が済んだら、別宮の荒祭宮(あらまつりのみや)にお参りしましょう。
外宮の多賀宮(たかのみや)と同様に、正宮のご祭神である天照大御神の荒御魂(あらみたま)が祀られています。荒御魂については、先日アップしている中編をご覧ください!
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これも多賀宮と同様、内宮の別宮としては第一位に列せられていて、正宮に次ぐ重要なお宮とされています。
そのため、別宮の中でも別格の扱いを受けているのです。一例を挙げると…
- 神に捧げるお供え物(神饌:しんせん)の種類や数が、正宮とほぼ同じ。
- 毎年5月と10月の神御衣祭(おんみそさい)は、正宮と荒祭宮でのみ実施。
- 天皇の使いである勅使(ちょくし)は、正宮と荒祭宮のみに拝謁。
- 式年遷宮は、他の別宮に先行し、正宮の直後に実施される。
うーん、ますます正宮と荒祭宮はセット、という感じがしますね。
また、多賀宮と同じく荒祭宮には賽銭箱が設置されていますので、アマテラスに個人的な願いをしたい時は荒祭宮までとっておきましょう。笑
(4)別宮「風日祈宮」
内宮境内にある別宮は、あと一つだけ。それが風日祈宮(かざひのみのみや)です。
めっちゃ言いにくいのは私だけでしょうか…?かざひのみのみや、かざひのみのみや。「みのみ」って。
ちょうど神楽殿の向かいから参道が伸びており、五十鈴川(いすずがわ)の支流・島路川(しまじがわ)に架かる風日祈宮橋を渡ると到着です。
この宮は、外宮の風宮(かぜのみや)と同様、級長津彦命(シナツヒコノミコト)・級長戸辺命(シナトベノミコト)という風の神を祀っています。
もともとは「風神社(ふうじんのやしろ)」という末社格の小さな社に過ぎなかったようですが、風宮と同じく、1293年に別宮へ昇格しました。
風宮の際にジラしたので(笑)、ここで昇格の理由について解説しましょう。
ヒントは、1293年という年代と「風」の「神」というワードです。
そう、これは直前に発生した元寇での「神風」によるご加護に対する、感謝の気持ちを込めた昇格でした。
元寇と言えば、最強のモンゴル帝国が日本の征服を目論んで攻めてきた、日本史上の大事件です。特に1281年の弘安の役(こうあんのえき)は、当時世界最大と言われたモンゴル艦隊が日本に襲来し、日本は絶体絶命のピンチを迎えました。
そんなピンチを救ったのが、モンゴル艦隊を襲った台風。
これを人々は「神風」と呼び、内宮にあった「風神社」の霊験(れいげん)によるものだと考えたのです。
あの有名な神風のルーツがここにあったなんて、ちょっとロマン感じますね!
ちなみに「風日祈」という名前は、古くより行われてきた風雨災害からのご加護をお祈りする神事に由来しています。時代の変遷によって期間が縮小されたものの、現在でも5月14日と8月4日に「風日祈祭」として脈々と続けられているのだそうです。
5. エア参拝その4〜内宮は境外も熱い〜
他にもいくつか社はあるのですが、別宮をできるだけ回るため、とりあえず境内を後にします。
(1)宇治橋の擬宝珠
そうそう、内宮境内から出る時、もう一度宇治橋を渡りますよね。
この際にぜひ注目してほしいのが、出口から2番目にある擬宝珠(ぎぼし)!
擬宝珠というのは「ネギの花の形」と言われる、先っちょがとんがった橋の欄干などについている飾りです。
橋の下流側・出口から2番目の擬宝珠の中には、橋の安全を祈願する「万度麻(まんどぬさ)」と呼ばれるお札が中に納められているそう!
画像の通り、ナデナデされすぎて一個だけ輝いているため、一発でわかります。笑
宇治橋は右側通行なので、帰り道忘れずにチェックしてみてくださいね。
(2)境外別宮「月読宮」
外宮とは異なり、内宮は別宮の多くが境外にあります。
特に「伊雑宮(いざわのみや)」と「瀧原宮(たきはらのみや)」は、古くから「遥宮(とおのみや)」と呼ばれたほど距離が離れているので、よほど時間がないと回れません…。
その2つは私がいつか訪れたらご紹介…ということで…笑
比較的近い「月読宮(つきよみのみや)」と「倭姫宮(やまとひめのみや)」に向かうことにしましょう。
宇治橋から月読宮までは、直線距離で約1.6kmほど。
歩くなら20〜30分、五十鈴川駅・宇治山田駅方面のバスに乗れば、10分もかからずに到着します。
この宮の最大の特徴が、なんと4つもの宮が並んで建っていること!壮観!
これはですね、別宮が4宮並んで建っているということでして。
写真で言うと、一番奥から「A:月読荒御魂宮(つきよみあらみたまのみや)」「B:月読宮」「C:伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)」「D:伊佐奈弥宮(いざなみのみや)」となっています。
それぞれのご祭神は次の通り。
ここにきて、実は私も最初から疑問だったことがあるんです。
内宮でアマテラスを最高神として祀っているけれど、その父・母であるところのイザナギ・イザナミは祀らなくていいんかね?って。
なるほど、ここにいらしたんですね!笑
創建当初はA〜Dの4社合わせて「月読宮」と呼ばれていたそうで、867年になってCとDが独立した別宮になったとのこと。
すなわち四宮あわせて月読宮と呼ばれており、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮に宮号が宣下されたのは、第56代
清和 天皇の貞観9年(867)8月のことです。 (神宮)
なお、この4宮は参拝の順番が決められています。
いいですか?
「B→A→C→D」の順番!
まあ月読宮ですから、月読尊が祀られている宮から参拝せよ、ってことでしょうね。
では、ここから今回取り扱う最後の別宮へ向かいます!
(3)境外別宮「倭姫宮」
月読宮の近くにあるバス停から、宇治山田駅方面へ向かうバスに乗って10分ほど。
「神宮徴古館」バス停で降りると…
今回めぐる最後の別宮「倭姫宮(やまとひめのみや)」に到着!
なお、バス停の名前にある「神宮徴古館(じんぐうちょうこかん)」もめちゃくちゃ面白い博物館なんですが、、、
キリがないので、また別の機会にご紹介しますね…笑
さっそく参道を進み、お宮へ向かうとしましょう。
うん。
他のお宮と区別つきません!笑
千木が内削ぎ、鰹木6本(偶数)、鳥居があって、式年遷宮用の古殿地が隣にありますね。異常なーしっ!
ただし、この倭姫宮だけに当てはまる特徴がありまして。
見た目じゃないんですが、実は倭姫宮だけ、いつどのように建てられたか明確にわかっているんです!
(つーか、それ以外の宮は全部由緒不明、ってすごい話…笑)
なぜかと言いますと、倭姫宮が一番新しい別宮だからなんですね。
どれだけ新しいかと言えば、1923年創建。
まさかの大正時代!まさかの20世紀!
(関東大震災の年ですね)
しかも「ご祭神である倭姫命(やまとひめのみこと)を祀る神社を創ってくんなまし!」という、神宮司庁と地元住民による請願がきっかけで創建された、というから驚き。
となると、倭姫命って何者?!
この長〜い記事をくまなく読んでくれた人がいるとすれば(仮に、ね)、あることに気づくはず。
「なんで神宮の創建について解説してないの?」と。
そう、この倭姫命こそが神宮創建に関わった重要人物なので、倭姫宮まで行ったら歴史をお話ししようと考えていたのですよ!
ってことで、最後は神宮創建の歴史で締めたいと思います。
6. 神宮創建の歴史
(1)内宮創建と倭姫命
神宮創建の歴史を考える上で、もっとも疑問なのが「なぜ天照大御神を伊勢の地に祀ったのか?」ということ。
実は、もともと天照大御神は宮中に祀られていたと言われています。
ところが、第10代崇神(すじん)天皇の御代(みよ)に疫病が流行った際、宮中で他の神と天照大御神を合わせて祀っているのが原因と考えられました。
そこで崇神天皇は、自らの皇女であった豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を天照大御神に仕えさせ、大和国の笠縫邑(かさぬいのむら)に遷座させたのです。これこそが伊勢神宮の起源とされています。
豊鍬入姫命のように、神や天皇の杖代わりとなって仕える人のことを「御杖代(みつえしろ)」と呼びます。
豊鍬入姫命の跡を継いで天照大御神の御杖代になった人物こそが、倭姫命でした。
(ちなみに倭姫命は、天照大御神に仕える御杖代ということで「斎王」と呼ばれるようになりました。これは現在「斎宮」という名前で知られています…詳しくは…またどこかで…笑)
彼女は御杖代として、天照大御神の新たな遷座地を求め旅を始めます。
大和国を発ち、現在の滋賀県・岐阜県・愛知県を歩き回り、伊勢の地にたどり着きました。
すると、天照大御神から「ここ綺麗な場所ですね。ここに鎮座したい!」(ざっくりだし失礼だしごめんなさい)という神託を受けます。
これを受けて、今から約2,000年前に皇大神宮(内宮)が築かれたというわけ!
でも、なかなか疑問だらけ。
- そもそも何で伊勢だったのか、やっぱりハッキリしない。ご神託?
- 豊鍬入姫命が場所を遷したのに、なぜ改めて遷座したのか?
- 倭姫命はおそらく三種の神器のうち、八咫鏡と草薙剣は持っていたと考えられる。…あれ?八尺瓊勾玉はどうした?(実際、現在でも勾玉だけは宮中に本物が置かれている)
謎は謎でいいのかもしれないけど、気になるので研究を続けますね。笑
(2)倭姫命と倭建命
先ほど倭姫命は「八咫鏡と草薙剣は持っていたと考えられる」と書きましたが、これの根拠を少しだけお話ししておきましょう。
八咫鏡はとても簡単。
だって、内宮に祀られていますからね。倭姫命が持ってきて、そのまま神宮に祀ったんでしょう。
問題は、草薙剣。
倭姫命が草薙剣を持っていたと言えるのは、記紀において「倭姫命が、伊勢を訪ねた倭建命(やまとたけるのみこと)に草薙剣を授けた」という記述があるからです。
倭建命(日本書紀では日本武尊と書く)は、日本神話における英雄。
第12代景行(けいこう)天皇の皇子であり、倭姫命は父のきょうだい、つまり倭建命にとっては叔母にあたるんですね。
この物語を語り始めると終わらないので、ここでは触れませんが…
倭建命はその後東征を進めますが、神の祟りによって亡くなってしまいます。
持っていた草薙剣はどこへ行ったかと言いますと…名古屋の熱田神宮(あつたじんぐう)で今も祀られているんですねー。
ここら辺の話も、追い追い特集しますので!
(3)外宮はどうした?
ここまでは内宮のお話。
外宮はいつできたのかと言うと、内宮創建から約500年後と言われております。
時は5世紀後半、実在がほぼ確実されている第21代雄略(ゆうりゃく)天皇の御代にさかのぼります。
ある日、天皇の夢に天照大御神が現れました。そして「私に美味しいご飯を食べさせてくれる豊受ちゃんを連れてきて!」(またもやざっくりだし失礼だし、ごめんなさい)というお言葉を授かるのです。
こうして丹波国に祀られていた豊受大御神が遷座され、現在の外宮となりました。
7. まとめ
はあああ…みなさん、ここまで読むの疲れましたよね。
わかります。
でも何より、書いた本人が憔悴してます。笑
疲れた。笑
ただ、ここまで色々なことを書いてきたのは、神宮こそが日本神話の中心地と言えるからです。
今後古事記をはじめとした日本神話の世界を語っていくためにも、今回の記事が非常に参考になるはず!
ぜひみなさんも実際に伊勢の神宮へお参りして「ああ、あんなこと書いてあったなあ」と思い出していただければ幸いです。
これにて、とりあえず完結!!!
(参考文献)
・山折哲雄監修、田中治郎著『新版 面白いほどよくわかる日本の神様』日本文芸社, 2013
・武光誠監修、柾朱鷺マンガ『マンガでわかる天皇』池田書店, 2018
・中村啓信訳注『新版 古事記 現代語訳付き』角川文庫, 2009
※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。