【2020年4月9日】赤坂氷川神社へエア参拝!(東京十社めぐり2社目)《参拝編①》
《この記事の文字数:約3,800》
ちょっと読み応えアリ
前回は導入編と称して、赤坂氷川神社の由緒やご祭神などについてご紹介しました。
今回からは、いよいよ境内に皆様をご案内!
それでは早速行ってみましょう。
■導入編をまだ読んでいない方はこちらからどうぞ!
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2. まずは本殿へ直行!〜エア参拝その1〜
境内へご案内する前に、赤坂氷川神社の境内図を見ておきましょう。
こちらの境内図は、赤坂氷川神社公式WEBからお借りしたものです。
図を見るとわかる通り、下側(アメリカ大使館宿舎側・境内南東側)と右側(氷川坂側・境内北東側)の2ヶ所が主な入口となっております。
chimonが参拝した際には、氷川坂側から入ったんですけど、どうもアメリカ大使館宿舎側が正門っぽいので…今回はそちらからご案内します。
(1)鳥居と質素な楼門
上の鳥居や神社名の写真も、アメリカ大使館宿舎側の入口の様子。
鳥居から参道がまっすぐに伸びているのが、何とも気持ちいいですよね。
赤坂氷川神社のものとしては、境内に4つの鳥居があります。南東側の参道に2つ、北東側の参道に2つですね。
鳥居ごとに創建年代が異なるそうで、南東側の参道に立つ「一の鳥居」と北東側の参道に立つ「二の鳥居」は大正時代創建。
本殿前に立つ「三の鳥居」は、江戸時代の天保12(1841)年創建と記されています。
はい、この形の鳥居は何という名前だったでしょうか…???
大正解!!
「明神鳥居」でしたね!!
ちなみに、二の鳥居は額束(がくづか)に神社名が入っているのですが、一の鳥居には神社名の額が掲げられていません。
前回の日枝神社でもそうでしたが、やはり横に神社名を書いた石碑がある場合には、わざわざ鳥居に神社名を記さないってのが法則みたいですね。
ここで悲しいお知らせ…私、華麗にやらかしておりまして…
三の鳥居を撮り損ねました…。笑
三の鳥居をくぐると、本殿境内の前に楼門が設けられています。
この楼門、結構な渋さですよね。ほぼ素木(しらき:塗装を施さない木材のこと)。
前に取り上げた鹿島神宮の楼門と比べると、一目瞭然です。
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これは、社殿が造営された時代に関係がありそうです。
鹿島神宮の楼門は、江戸時代の初期1634年、水戸徳川家初代藩主の徳川頼房によって寄進されたものでした。当時の3代将軍・家光の病気が治ったことを感謝し、奉納されたという話でしたね!
(ちなみに、家光が罹患したのも天然痘!!)
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基本的に家光の時代って、幕府の権力を知らしめるためというのもあるんでしょうが、豪華絢爛なのが特徴的。大きい・鮮やか・どーん!という傾向が見られます。
一方の赤坂氷川神社は、享保の改革を進めた8代将軍・吉宗の時代に移転してきました。
そのため、導入編でも少し触れましたが、全体的に経費削減の余波が現れているんですよね。
決して手抜きってことじゃなく笑、素材感を大切にした質素な作りが特徴的なのです。
だからこそ、楼門も余計な塗装がない、シンプルな見た目になっていると考えられます。個人的には結構好き。
(2)見た目は鮮やか、中身は質素。
で、いよいよ本殿。こんな感じ!
楼門と違って本殿は朱塗りなので、パッと見、結構派手に見えるかもしれません。
しかし、実際には朱塗り+金以外の色は使われておらず、最低限の見栄っ張りって感じなんです。
先日ご紹介した「東京十社めぐり」シリーズの「日枝神社」と比べて見ても、よくわかります。
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ちょっとわかりにくいですが、日枝神社の本殿は正面の蟇股(かえるまた:梁の上についている山形をした部材)が鮮やかに着色されています。
一見同じように見えても、神社ごとに使われている色の種類が全然違うのです!
次に横から見た図を、今度は鹿島神宮と比べてみましょう。
これは非常にわかりやすいのでは?
明らかに鹿島神宮の方が、屋根についている装飾や彫刻が鮮やかですよね。
そもそも赤坂氷川神社の方には、彫刻というものが見当たりません。
享保の改革が社会にどのような影響を及ぼしていたかという、当時の歴史を表す貴重な文化財だということがおわかりいただけるのではないでしょうか。
なお、横から見た図を見ていただくと、拝殿の後ろに本殿が連なっているのがわかりますよね。
これは「権現造(ごんげんづくり)」と呼ばれる社殿建築様式で、本殿・幣殿・拝殿が一体化した作り。
権現造は、日光東照宮・上野東照宮・久能山東照宮といった、東照宮で多く見られる建築様式です。
ご存知の方も多いと思いますが、東照宮というのは徳川家康を祀る神社。
徳川家康が亡くなってから与えられた神号が「東照大権現」と言いまして、ここから「東照宮」という名前がつけられ、東照大権現を祀る神社で多く使われる建築様式だから「権現造」と呼ばれるようになりました。
そう考えると、吉宗が造営した赤坂氷川神社の社殿に権現造が取り入れられているのは、自然なことなんですね。
ところで、この本殿、もう一つ気になるところがありまして。
上の写真を見ると、社殿を取り囲む回廊の上部、屋根との間にもう一つの屋根が取り付けられています。
そのデザイン…まさかの大正モダン風!!笑
おそらく後からつけられたものだとは思うんですけど、どういう意図でこのデザインにしたんでしょうかね?
まあ社殿自体が結構シンプルなので、違和感はないと思いますが…真相は謎です。
社殿の中はあまり見ることができませんが、社宝である花鳥図の天井画・鳳凰の壁画が描かれているそう。昭和4(1929)年、遷座200周年を記念して描かれた比較的新しいものなので、結構豪華絢爛な感じです。
3. 本殿周りを見てみよう〜エア参拝その2〜
(1)神輿!!
本殿の脇には、宮神輿庫がありました。
写真は映り込みまくりで見にくいんですけど…笑
これは、例年9月に開催される例大祭「赤坂氷川祭」で使われる宮神輿。
この赤坂氷川祭、江戸時代にはかなり大きな祭りだったそうで、日枝神社の記事でご紹介した「山王祭」・神田明神の「神田祭」という2つの天下祭(江戸城への入城が許され、将軍が上覧した祭)に次ぐ規模を誇っていました。
当時の神幸祭は、宮神輿2基が中心を練り歩き、その周りを13本の山車が警護するというもの。
一応、天下祭のように江戸入城を前提としていたみたいで、最上部はからくりで畳めるようになっていたそうな!
結局江戸城内へ入ることはなかったらしいですが、さすが吉宗によって遷座され、将軍からの庇護が篤かっただけあります。
ただ、天下祭がそうであったように、明治に入ると都市化が進み、路面電車が開通。路面電車の架線に引っかかってしまう山車は、次第に姿を消していき…
おまけに、宮神輿のうち1基は譲渡され(え?!笑)、もう1基は1945年の東京大空襲で焼失してしまいます。
何だか、日枝神社・山王祭と同じような経緯を辿ってますよね…。
とは言え、13本のうち9本の山車は残存していたそうで!
2004年あたりから山車の修復と新規製作が行われ、現在では往年の13本の山車が復活しています。
そして、宮神輿の方も2016年に新調されました!それが写真の宮神輿というわけ。
江戸時代の宮神輿はとんでもなく大きくて、重量1,300kg!牛で曳いてたらしいですが、このご時世それは無いよね〜、ってことで一回り小さいサイズで復活しました。
小さくなったとは言え重量は1,000kg以上、豪華絢爛な装飾も当時の様子をできる限り再現してるんですって!
今年はどうなるかわかりませんが、9月の赤坂氷川祭で赤坂周辺を練り歩きます。
このブログを読んだなら、ぜひ宮神輿と山車にご注目いただきたいですね。
(2)ご神木、そしてまたもやミスる
境内にあるスポットでもう一つご紹介したいのが、ご神木の大銀杏。
で、ご神木を撮影していたんですが…
まさかの、ご神木間違えてたっぽい!!!笑
これも注連縄がかけられているんで、ご神木であることに間違いはないんですが…
もっと立派でぶっとい銀杏の木があるのです。
※後から調べたら、境内には古い銀杏の木が3本あるらしい。皆さんもご注意を。笑
再訪した時に、あらためて掲載するとして…すみません…!
大銀杏の木は樹齢約400年と言われる古木でして、要するに赤坂氷川神社が遷座して来る前からこの地にあった木。
何と東京大空襲を生き抜いたということで、裏側が焼け落ちて空洞になっているんです。
まさに江戸の歴史の生き証人。ああ…写真に残さなかったのが…惜しい…。
ということで、参拝編①は終了!
次回の参拝編②では、境内のその他の見どころをご紹介して、完結予定!
予定!
予定?笑
《参拝編②へ続く》
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(参考文献)
・神社本庁監修『神社検定公式テキスト①『神社のいろは』』扶桑社, 2012
(参考URL)
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chimon
※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。