【2020年1月8日】伊勢神宮へエア参拝!(知っておきたい日本の社寺シリーズ1)《中編》
《この記事の文字数:4,921》
ちょっと読み応えアリ
どうも、chimonです。
あ、関東地方の皆さん、松の内昨日までですよ!
注連飾りとか門松とか片付けましたか?!
我が家はちゃんと片付けましたよ!
関西地方の方はまだ!
何で地域ごとに期間が違うの?
松の内って何、って方にはこんな記事ありますよ。笑
himekuri-nippon.hatenablog.com
さて、今回は昨日に続き、日本一の神社・伊勢の神宮へエア参拝していきます。
前中編3部作の中編ですね。
昨日の前編では、神宮の概要・エア参拝(外宮正殿まで)をご紹介しています。まだ読んでいない方は、こちらからどうぞ!
himekuri-nippon.hatenablog.com
では、早速続きからいきましょう。
3. エア参拝その2〜外宮の別宮を回ろう〜
伊勢の神宮、外宮(げくう)への参拝が終わったら、つづいて別宮へ。
外宮本殿の南側、亀石(かめいし)と呼ばれる石橋を越え真っ直ぐ進むと、正面に長い石段があります。この石段を登っていきましょう。
(1)別宮「多賀宮」
その先にあるのが、外宮別宮の中でも第一位に列せられる「多賀宮(たかのみや)」。
この多賀宮、もともとは「高宮」とも呼ばれていたそう。まさに高台に建つお宮ですね。
多賀宮に祀られているのは、外宮本宮で祀られる豊受大御神(とようけのおおみかみ)の荒御魂(あらみたま)です。
◆和御魂(にぎみたま)と荒御魂
神道では、神には優しい側面と激しい側面があると言われています。この2つの側面のうち、優しい側面を和御魂(にぎみたま)、激しい側面を荒御魂(あらみたま)と言うのです。
これだけ聞くと、荒御魂は祟りなのか?と思いがちですが、必ずしもそういう訳ではありません。どちらかと言うと、神の荒ぶるエネルギーや新たな物を生み出す力、のようなものを指します。
外宮の本宮で祀られているのは、豊受大御神の和御魂であることから、多賀宮にお参りすることで初めてご祭神へ完全にお参りしたということになりますね。
だから、多賀宮というのは別宮の中でも最も重要と言われるのです。
これは後でご紹介する、内宮(ないくう)本宮と荒祭宮(あらまつりのみや)の関係も同様。荒祭宮も内宮の別宮としては、第一位に列せられています。
多賀宮は歴史も古く、約1,500年前に外宮が創建されたのと同時に建立されたようです。
ちなみに、多賀宮と内宮別宮の荒祭宮には大きな特徴が4つあります。
- 社殿が、ほかの別宮に比べて大きい。
- 本宮には設置されていない賽銭箱が置かれている。
- ほかの別宮にはある、鳥居が設置されていない。
- この2宮のみが、本宮と同じ年に式年遷宮が行われる。
ご祭神の荒御魂を祀っているというのは、それだけ特別な宮だということなのでしょうね。鳥居がないというのは…理由不明!笑
ただ何となく思うのは、荒御魂を祀る別宮は、和御魂を祀る本宮と一体的なものなので、本宮の入口たる一の鳥居や二の鳥居がその役割を果たしているのかな、と。
賽銭箱もしっかり置かれていますので、本宮で言えなかった個人的な願いは、多賀宮や荒祭宮へ!笑
(2)別宮「土宮」
多賀宮へのお参りが済んだら、石段を降りて土宮(つちのみや)へ。
確かに、こちらには鳥居がありますね。
土宮に祀られている大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)は、その名の通り土の神であり、外宮が鎮座する以前からこの土地の守護神だったと考えられます。
平安時代後期の1128年、数ある末社の中から別宮に昇格されました。
土宮昇格の要因となったのは、外宮の西側を流れる「宮川」の度重なる氾濫だったようです。この土地の住民にとって、宮川の氾濫は非常に大きな問題だったのです。
この氾濫は外宮の祭事にも大きな影響を与えていたとみられ、住民は大土乃御祖神にすがっていたのでしょう。こうした経緯から、宮川堤防の守護神として別宮へ昇格するに至ったのです。
土宮が長い歴史を持っていることがわかる証拠が一つあります。
それは、外宮の境内社のなかで土宮だけが東向きということです。
多賀宮や風宮(かぜのみや)は南を向いているのですが、土宮だけは当初から東向きでした。式年遷宮の際に南向きへの建て替えが検討されたこともあったそうですが、結局現在に至るまで東向きです。
東向きの理由は不明ですが、どちらにせよ、外宮建立前から祀られていたというのは間違いなさそうですね!
(3)別宮「風宮」
つづいては、土宮から東方向にある風宮(かぜのみや)へ。
ここに祀られるのは、級長津彦命(シナツヒコノミコト)と級長戸辺命(シナトベノミコト)という風雨を司る神。古事記で、伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)が次々と神を産み出す「神産み(かみうみ)」によって誕生した、と言われています。
もともと「風社(かぜのやしろ)」と呼ばれる小さな社だったのですが、1293年に突如別宮に昇格しています。
内宮の別宮である「風日祈宮(かざひのみのみや)」と同じタイミングでの昇格だったため、理由や背景については、内宮の項で改めてご紹介しましょう!
すでに結構な文字数になってて、終わる見込みが立たないので!笑
(4)別宮「月夜見宮」
さて、つづいては外宮最後の別宮である月夜見宮(つきよみのみや)へ向かうわけですが、月夜見宮だけは境外にあります。
そのため、外宮の北にある北御門口(きたみかどぐち)から西へ。
外宮から月夜見宮へ向かう道を歩いていると、不思議なことに気づきます。
「何で道の真ん中だけ黒いんだ?」(上の画像参照)
それは、月夜見宮に鎮座する月夜見尊(ツキヨミノミコト)がこの道を通って外宮の豊受大御神のもとへ向かう、と言われているからです。中央は神の通る道だから、人が通行しないように黒くなっている、というわけなんですね。
ちなみに、この道は「神路通り(かみじどおり)」と名付けられています。まんま。
神路通りを5分ほど歩くと、いよいよ月夜見宮に到着!
月夜見宮に祀られているのは、月夜見尊とその荒御魂です。出ました、荒御魂!
内宮の別宮・月読宮(つきよみのみや:読み方は同じ)で祀られる月読尊(ツキヨミノミコト:読み方は同じ)と同一神なんですが…漢字だけ違うってややこしい!!笑
ただ、外宮の月夜見宮は和御魂と荒御魂を一緒に祀っている、というのが大きな特徴です。内宮の月読宮は、別の社で祀っているんですよね…。
漢字の違い、合祀するか否かの違い…理由は定かではありません。不思議。
ちなみに月夜見尊とは、古事記に出てくる月読命(ツクヨミノミコト)のこと。古事記や日本書紀(合わせて「記紀」と言う)では、ツ「ク」ヨミと読むんですよね。神宮ではツ「キ」ヨミ、これまた不思議。
姉の天照大御神・弟の須佐之男命(スサノオノミコト)と並び、三貴子(さんきし)の一柱に数えられる、言わば「とっても偉い神様」。古事記では、夜の世界(断じて怪しい意味ではない)の統治を任され、太陽神である天照大御神に対して月の神とされる。日本書紀では、また違った神話で語られる。三貴子と言われながら、古事記ではほとんど登場しない。(細かくはいずれ記事にします)
ちょっと脱線します!
神宮の紹介では月夜見尊は天照大御神の「弟神」って書かれてるんですが、記紀では性別が明らかになってないんです。勝手に弟になってるんですよね…太陽=女神、月=男神、ってこと?
とりあえず、月読命は天照大御神に次ぐ重要な神様であり、それを祀る月夜見宮も重要な宮だということ!
これでようやく外宮を回り終えたということになります…。
本来は他にも二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)など、ご紹介したいところはたくさんあるのですが、先を急ぐことにしましょう…!笑
4. エア参拝その3〜いざ内宮!〜
さて外宮への参拝が終わりましたので、内宮へと向かいます。内宮まではバスで20分程度。(初詣時は40分以上かかりましたよ、ええ。)
(1)宇治橋から内宮境内へ
内宮境内に入るには、五十鈴川(いすずがわ)に架かる「宇治橋」という橋を渡る必要があります。
もともとこの橋は老朽化するたびに架け替えられていたそうですが、明治以降は20年に一度の式年遷宮の際、社殿などとともに架け替えられています。
また、五十鈴川は別名「御裳濯川(みもすそがわ)」と呼ばれることから、御裳濯橋という名でも呼ばれるようです。
ここで一つ気をつけなければならないのが、内宮境内は「右側通行」ということ。
外宮境内は左側通行なので、なぜか逆なんですねー。神宮の解説では…
古い書物などを読んでもその理由ははっきりと書かれていませんが、参道の外側を通って神前に進んだ参拝者の「慎みの心」の表れと考えられます。また、参拝前にお清めをする
御手洗場 が内宮は右側、外宮は左側であったことも理由と考えられます。 (教えてお伊勢さん)
だそうです。笑
確かに、外宮では参道向かって右側に正殿があるのに対し、内宮では左側に正殿があります。これが理由なのかは定かでありませんが、とにかく神宮は謎が多い!!
だから奥が深い。
宇治橋を渡り、神苑(しんえん)と呼ばれる広大なお庭を進んでいくと手水舎があります。
が!敢えてここで手水をせず、右手に進んでいきましょう。
すると…
目の前に現れるのが、五十鈴川へと下っていく緩やかな石段。
これは「御手洗場(みたらし)」と言って、ここで手水舎と同じように両手を清めることができるんです!
「え?なんで川で清めるの?」と思ったあなた!鋭い!笑
これはお清めの起源に関わる話なんです。
お清めの起源になったと言われるのが、伊邪那岐命が黄泉の国から帰ってきた際、川の穢れを落としたという説話。これが「禊(みそぎ)」のルーツと言われており、時代を経て簡略化されて手水になった、というわけ。
つまり、当初は手水も川で行うものだったんですね!
神宮に限らず、由緒ある神社はどこも清流の近くに建立されており、川の水で清めてから参拝すると言うのが一般的だったようです。
神宮は、その伝統を今に伝えているということ。
なお、この御手洗場は1692年、徳川第5代将軍・綱吉の生母である桂昌院(けいしょういん)によって寄進されたものと言われています。
桂昌院は京の八百屋出身でありながら、第3代将軍・家光の側室まで上り詰めた人物。
彼女は、その幸運を神仏の加護によるものだと信じ、全国の多くの寺社を復興しました。その一環として寄進されたのが、この御手洗場だったのですね。
うんうん…
案の定、とんでもない長さになってきましたね。笑
ということで、後編では内宮正殿への参拝から進めていきます!
次回でいよいよ終結!!
無理矢理終わらせるので…どこかで番外編やるかも…笑
それでは、また明日。
《後編へ続く》
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(参考文献)
・神社本庁監修、扶桑社「皇室編集部」編『神社検定公式テキスト①「神社のいろは」』扶桑社, 2012
・山折哲雄監修、田中治郎著『新版 面白いほどよくわかる日本の神様』日本文芸社, 2013
・『【完全保存版】古事記 日本最古の物語』英和出版社, 2019
※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。