【2020年3月16日】意外と知らない北海道の成り立ち《後編①》
《この記事の文字数:約6,700》
読み応えアリ!
どうも、chimonです。
いよいよ「意外と知らない北海道の成り立ち」シリーズも後編に差し掛かっておりますが…果たして完結なるか?!要注目です。笑
(タイトルで展開が想像つく、という野暮なツッコミはやめてください。笑)
それでは早速!
■これまでのシリーズをまだ読んでいない方は、こちらからどうぞ!
himekuri-nippon.hatenablog.com
himekuri-nippon.hatenablog.com
5. 幕府と大国のあいだ
(1)クナシリ・メナシの戦い
前回のおさらいになりますが、アイヌと松前藩の間では「場所請負制」が取られるようになっていました。
場所請負制とは、「松前藩の家臣たちが、和人の商人にアイヌとの交易を委託する代わりに、税金(運上金)を徴収するしくみ」とご紹介しましたね。
このしくみによって、アイヌとの交易を受託した商人は、アイヌに対して横暴な振る舞いを繰り返すことになります。
特に、蝦夷地の北東部クナシリ・メナシ地方(現在の国後島および目梨郡羅臼町周辺)の交易を受託していた飛騨屋(飛騨国出身の商人)は、アイヌを労働力として酷使していました。
これには、北の大国・ロシアの存在が大きく絡んでいます。
と言うのも、すでに千島アイヌとの交易を始めていたロシアが、クナシリアイヌ首長だったツキノエの案内で、1778年に根室のノッカマップを訪れていたのです。
ロシアは松前藩に対して交易を要望するのですが、対応した松前藩の役人は「ごめん!決められん!相談してから回答するので、1年待ってくれい!」と答えます。ロシアも一回戻りました。
こうした背景もあって、ツキノエは「俺たちにはロシアがついてるんだからな!」と大国との関係をチラつかせ、松前藩や飛騨屋との交易を拒絶していたのです。
ところが、「交易できないなら出直すわ」ということでロシアがいなくなると、後ろ盾のいなくなったクナシリアイヌは飛騨屋にお詫びしに行きました。
これを良いことに、飛騨屋はアイヌたちを酷使し始めた、というわけ。
ここでは書くのも憚れるくらいヒドい仕打ちをしていたみたいで、アイヌの堪忍袋の緒が切れ…
1789年、アイヌによる大規模蜂起「クナシリ・メナシの戦い」が勃発しました。
アイヌの中でも蜂起に懐疑的な勢力もいたことや、松前藩が鎮圧に乗り出したこともあり、結果的には蜂起を主導したアイヌは処刑されます。
同時に松前藩は、責任を取らせる形で飛騨屋を追放しています。
なお、松前藩は飛騨屋に多額の借金があったらしいので、「ラッキー!」くらいに思っていたかもしれません…。
この事件は、アイヌによる最後の武力蜂起とも呼ばれ、以降は和人の支配に組み込まれていくことになりました。
ただ、この事件が松前藩にも大きなインパクトを与えることになるのです…!
(2)松前藩は秘密主義
先ほどご紹介した通り、1778年に南下政策を採るロシアが松前藩との交易を持ちかけます。
「1年後に回答しますっ!!」と勢いで答えた結果、きっかり1年後、1779年に再度ロシアがやって来ました。
ロシアさん、律儀。笑
前回は根室でしたが、今回は厚岸(あっけし)まで足を伸ばしています。
厚岸は、根室と釧路の間。要するに、より松前藩の本拠地に近い場所までやって来たということですね。
再びやって来たロシアに対しての、松前藩の回答は…
「日本は長崎を通じてしか、外国とは貿易してないの!無理!…うーん、ただ、千島のアイヌを通じての交易は良いかもねぇ…ごにょごにょ」
という、まるで昨今の政治家の「結局何を言っているかわからない発言」並みの曖昧さ!笑
要するに、松前藩の影響力が及んでいた北海道までは、すでに「日本の領地」だという認識があったってことも言えそうですね。
ところが!
問題はここから。
なんと松前藩は「ロシアが交易を迫って来た」という事実を、幕府にヒミツにしちゃうのです!!あー!!!笑
ロシアが南下しているなんて幕府に知られたら、最前線の蝦夷地を直轄領にされちゃうかもしれませんからね。黙っとこうという考えが働くのも、無理はない…?
とは言え、黙っておけば事態は悪化するってのは世の摂理でして。笑
(3)老中・田沼意次の改革
1781年〜1783年にかけ、仙台藩医だった工藤平助によって執筆された「赤蝦夷風説考」の中で、ロシア南下への対策の必要性が取り上げられます。
(余談ですが、18世紀初頭からロシアは日本への接近を計画していたみたいで、サンクトペテルブルクに日本人学校を設立して、交渉用の日本語教育をしていたらしいですよ!)
1784年、この本は当時幕府の実権を握っていた老中・田沼意次の元に届けられました。
赤蝦夷風説考では、「蝦夷地でロシアとの密貿易が行われてるよ…!ロシアは大国で無視はできないから、むしろ正式に貿易して仲良くなっちゃったほうがベターかも!」というような内容が取り上げられていました。
田沼意次が政治を執った時代は「田沼時代」とも呼ばれ、幕府の財政再建を目指すべく政治改革を行なっていました。
具体的に言うと、「米で儲けるんじゃなくて、商売を盛んにすることで儲けるのが良いんじゃね?!」というスタンスを採ったんですね。
ある意味で、今の感覚に近いのかも。
田沼意次の改革について詳しく知りたい方は、こちらがおすすめ!
商業に目をつけていた田沼からすれば、松前藩が独占している蝦夷地における交易の利益というのは、非常に美味しいものに感じられたことでしょう。
実際、1785年頃には何度か幕府の蝦夷地調査団が派遣されました。
実はこの時に、先ほどご紹介した「飛騨屋」の実態(どんぶり勘定・アイヌを酷使しているetc.)が暴かれていたのです。
しかし、日本史を多少覚えている人ならお分かりの通り、直後の1786年に田沼が賄賂によって失脚してしまいます…。
結局、ロシアとの交易や飛騨屋の実態には手をつけることなく、クナシリ・メナシの戦いに繋がっていくというわけ…。
(4)だって、ロシア、怖いもん
まーた、日本史で出てくる人だ!笑
江戸の三大改革における次男坊「寛政の改革」を行なった人物です。
田沼が「ロシアとは交易を行なって仲良くしておくべき」と考えたのに対し、松平定信は「ロシアが南下して来なかったのは、蝦夷地に何もないからでしょ!蝦夷地は放っといて正解なんだよ〜」というスタンスでした。
つまり、これまで通り蝦夷地は松前藩に任せておいて、下手に開発しないでおこうという考えだったんですね。
そんな最中の1792年、女帝・エカチェリーナ2世の使節としてラクスマンが根室にやって来ます。
ラクスマン…これも日本史でやった気がする…覚えてないけど。笑
彼は、シベリアに漂着した日本人を連れていました。
日本人を返す代わりに、「交易をしてくれませんかー?」という要望書を持って来たんですね。
最初に対応した松前藩も、今回ばかりは黙っておくわけにいかず、すぐに幕府へと報告します。
「幕府さーん!!ロシア、めっちゃ本気です!!どうします???」
ただ、さっきお話しした通り、当時のトップ・松平定信はロシアとの交易に対して慎重派。
国防面からロシアとやり合うのはマズい!という感覚を持っていたため、次のように判断を下します。
「うーん…どうしても交易したいなら、長崎に回って!長崎に入港する許可書はあげるから!!」
(松前藩に対して)「ロシアを刺激しちゃダメだよ。丁寧に対応しなさいね」
この結果、ロシアから日本人を引き渡してもらった後、長崎港入港の許可証を与えて蝦夷地から出港させました。
ラクスマンはどうしたかと言いますと、結局長崎には入港せず、そのままロシアに戻っています。
ひとまず、ロシアは引き下がったというわけですね。
このあたりは、根室市のページに詳細があったのでご紹介しておきます!
一旦ロシアが引き下がったとは言え、この出来事は幕府の方針を大きく転換させるきっかけとなります。
松平定信が失脚すると、再びロシア南下対策の必要性が叫ばれるようになり、1799年には松前藩から東蝦夷地を一時的に没収しました。(代わりに埼玉の土地を与えています)
この処置は当初期間限定の予定でしたが、1801年に「やっぱりずっと幕府のものにするわ」ってことで、半永久的に東蝦夷地を天領化したのです。
6. ロシアの本気
(1)幕府、やっちまった
日本に初めてやって来たロシアの使節・ラクスマンは、結局何もせずロシアに帰ったわけですが、その時にもらった長崎への入港許可証は大切に保管してたみたい。
ロシアでは、外交官のレザノフが「その許可証を使って、日本と交渉すべきだ!」と宮廷にかけ合った結果、1804年許可証を持参して長崎に来航しました。
ただ、この許可証を発行した松平定信はすでに失脚していて、外交をちゃんとやれる幕府のお役人がいなかった模様。
中には「ちゃんと礼儀を持って説得しよう」という意見もあったみたいですが…
最終的には「日本の武士、強い!ロシアに負けない!」というとても楽観的な意見と、「めっちゃヒドい扱いすれば、ロシアも二度と来なくなるよ!」という極論が採用されます。
レザノフは粘り強く交渉を試みるのですが、長崎周辺で軟禁状態に置かれるのでした。
結局、半年間長崎に滞在したレザノフは本拠地であるカムチャッカに帰ります。
一連の出来事を通じてレザノフは怒り心頭!
「ニッポン、アイツラ、ブリョクデコジアケテヤルシカナイネ!!」という考えを、皇帝に進言します。その後、レザノフ自身はこれを撤回したのですが…
「日本を攻撃せよ!」という最初の命令は生きていると勘違いしたレザノフの部下たちが、1806年〜1807年にかけて、樺太の松前藩居留地や択捉島の幕府駐留軍を相次いで攻撃。
攻撃を受けた幕府および松前藩は、圧倒的な武力を誇るロシアに大敗を喫します。
「日本の武士、強い!」って意気込んでたのに、実際に戦ってみたらコテンパン…。
天下泰平の世で、ある意味「平和ボケ」状態にあった幕府はロシアのヤバさにようやく気付き、鎖国と国防強化を前面に押し出すこととなります。
まあ普通に考えて、大国をナメすぎだよね…
(2)蝦夷地、没収。
ロシアのヤバさに気づいてしまった以上、松前藩なんかに蝦夷地を任せておくわけにはいかなくなりました。
国を守るためにも、ロシアに近い蝦夷地を何としても守り抜く必要が出て来たんですね。
そもそも松前藩は「準大名」扱いの弱小藩だったわけで、その意味でも蝦夷地を軽視していたとも言えますよね…。
幕府は1807年、ついに松前藩から西蝦夷地も没収し、現在の福島に移封(いほう:国替えすること)。
蝦夷地全体を幕府の直轄地(天領)とし、東北の有力藩だった仙台藩と会津藩に警備させるという新たな体制を敷きました。
当時の幕府的には最強布陣だったはずで、ようやく蝦夷地の重要性に気づいたってことでしょうね。
松前藩からすれば、かなり厳しい措置だったはず…。
ところで、この間、アイヌの人々はどうなったんでしょう?
結論から言うと、ほぼ待遇は変わっていません。
幕府はアイヌの人々に対する処遇を多少は改善したみたいですが、支配構造の改革にはほぼ手をつけていません。むしろ直轄地になっちゃったので、「アイヌ民族も日本の影響下」っていう状況がより鮮明になってしまったと見るべきかもしれないですね。
(3)思わぬ命拾い
話は前後しますが、幕府は1806年「文化の薪水給与令(しんすいきゅうよれい)」(文化の撫恤令<ぶじゅつれい>とも言う)を発布しています。
これは「外国の漂着船がいたら食料や燃料を渡して、速やかに穏便に帰ってもらってね」という、言わば「外国船のトリセツ」みたいなもの。
幕府の財政状況から考えて、外国と戦争する体力は無い…
じゃあ、ここは穏便に済ませておこう!という考えがあったんですな。
そんな中でロシアのヤバさに気づいた幕府は、1807年の終わりに「ロシア船は打ち払え!」という命令に切り替えています。
明らかに、ロシアへの強硬姿勢に舵を切っていますね。
この後、1811年から2年以上、ロシア人が日本によって抑留されるという「ゴローニン事件」が発生しますが…
ここで運が良いと言うか、何と言うか、ロシアを揺るがす大事件が勃発します。
それが、1812年のナポレオン1世による「ロシア遠征」でした。
「冬将軍でナポレオンが撤退した」っていう逸話で有名な、ナポレオン戦争最大の転換点ですね!
もはや極東地域への軍事作戦どころではなくなったロシアは、南下政策を一旦取り下げることになりました。
ゴローニン事件も紆余曲折あり、結果的には幕府とロシアの間で解決されることとなったのです。
ちなみに、この際に国交樹立や国境の画定なんかも議題にあったようですが、この時点では実現に至っていません。
(4)松前藩、復活!
とりあえず当面の危機は去った!
ということで、1821年、松前藩がまさかの蝦夷地復活を遂げます!笑
まさか過ぎる…!!
どうも松前藩が総力を挙げて、幕府のお偉いさんに根回ししてたということもあるようですが…
何だか幕府の能天気さを禁じ得ない…笑
幕府は松前藩に「ロシアがいつ来ても良いように、ちゃんと警備と防衛体制整えとけよ!」と命じています。
その結果建設されたのが、北海道で唯一の日本式城郭である「松前城(当時の名称は福山城)」です。
この時代、たくさんの和人が蝦夷地に移住したそう。
ただでさえ変容していたアイヌ文化は、壊滅的な影響を受けることになりました…。
(5)開国、そして大政奉還
完全に幕末です。
ここで、あなたの中の日本史に関する記憶を思い起こしてください…
…!!
そうです。
ペリーさんの黒船来航によって、1854年「日米和親条約」が締結された際、開港した2つの港が下田と函館でしたよね!
函館!北海道!
同年には、ロシアとも「日露和親条約」が締結されています。
日露和親条約も下田・函館の開港を定めるとともに、択捉島と北東の得撫島(ウルップ島)の間を国境線とすることも盛り込まれました。同時に、樺太は国境を決めず、両国の国民が一緒に暮らす場所にしましょうということも決められています。
これ、めっちゃ重要な話!
国境を決めたということは、正式に蝦夷地が日本領として認められたということ!!
条約締結を契機として、1854年に箱館奉行が再設置され(一度、松前藩から天領になった1802年に「蝦夷奉行」として初代奉行が設置されている)、またもや蝦夷地の多くが天領になっています。
少し話は変わりますが、幕末にアイヌの人々が相次いで天然痘にかかってしまい、人口が激減する事態に陥りました。
元は蝦夷地に天然痘は無く、あくまでも和人が持ち込んだ病気だったみたい。
そうなると、免疫を持っていないアイヌの人々の間でたちまち大流行しちゃったんですね…。和人のせい…。
この事態を受けて、幕府はアイヌの人々に強制種痘(天然痘のワクチン注射)を実施したのです。
「アイヌの人々にも平等にワクチンを注射した」と言えば聞こえは良いですが、要は「アイヌの人々も国民として認めた」ということに他なりません。
アイヌの人々の独立性が完全に失われた瞬間でもあり、呼び方も「蝦夷」から「土人(土着の人を表す語:現在では差別用語とされて用いない)」に変化しています。
こうして、アイヌの人々にも大きな影響を与えた江戸時代は終わりを告げ、ついに明治の世を迎えることになるのでした…。
というところで、お気づきだと思いますが!!
まったく完結しておりません!!!!!ごめんなさい!!!!!笑
なので、次回が完結編ということにさせてください。
明治時代以降の「北海道誕生」をメインに描いていきたいと思います。
もうしばしお付き合いくださいませ…
《後編②へ続く》
▲ ▲
・ ・
▽
chimon
※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。