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【2020年5月16日】「日本における都市計画の歴史」シリーズ Vol.2〜道マニア 源頼朝の計画都市・鎌倉〜

《この記事の文字数:約3,000》

 サラッと読める

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久々の第2弾!

どうも、chimonです。

 

前回から時間が経ってしまいましたが、「日本における都市計画の歴史」シリーズの第2弾をお送りしたいと思います!

 

今回は、鎌倉時代における都市計画についてご紹介。

 

それではさっそく参りましょう!

 

■第1弾をまだ読んでいない方は、こちらからどうぞ!

himekuri-nippon.hatenablog.com

 

2. 平安京を受け継いだ鎌倉の街

(1)天然要塞・鎌倉

前回は、古代における都市計画の歴史についてご紹介しました。

 

794年に整備された平安京を以て、古代の都市計画が一段落したというところで終わりましたよね。

 

 

今回は、中世にあたる鎌倉時代の都市計画について見ていきましょう。

 

 

鎌倉時代に政治の中心となったのは、もちろん鎌倉です。

 

 

この鎌倉、三方を山に囲まれ、南が海に面しているという「天然の要塞」であるということは有名な話。

 

 

鎌倉の街自体、源頼朝によって開かれたと考えられがちですが、実際にはもっと前から開拓されていた模様。

 

 

具体的には、平安時代中期に活躍した平直方(たいらのなおかた)が、この地に居館を設けたのがきっかけ。

 

その後、直方は源頼信に当地を譲り渡します。

 

 

頼信は河内源氏の祖と呼ばれ、その後、頼義・義家…義朝、そして頼朝へと家系が続いていきます。

 

 

代々、相模守(さがみのかみ)に任命されており、鎌倉に居を構えていたんですね。

 

 

源頼朝が鎌倉の地を幕府の本拠地に選んだ理由の一つは、父をはじめとした祖先が代々本拠を構えた場所だったからなのです。

 

 

もう一つの理由は、冒頭にお話しした「天然の要塞」だったから。

 

 

最低限の整備さえすれば、自然が防衛してくれるなんて最高の立地!

 

 

(2)頼朝の京コンプレックス?

そんなこんなで、源頼朝は鎌倉に幕府を開くことになったわけですが…

 

それに伴い、本拠地である鎌倉の都市整備に着手することになります。

 

 

頼朝が鎌倉の都市計画の参考にしたのが、かの平安京でした。

 

 

朱雀大路を中心とした碁盤目状の街区が特徴的な、都城制と条坊制の都でしたね!

himekuri-nippon.hatenablog.com

 

 

鎌倉の街を地図で見てみると、明らかに一本だけ異質な目抜き通りがあります。

 

それが、鶴岡八幡宮から南の由比ヶ浜にまっすぐ延びる若宮大路

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わかりやすくまっすぐ!

道中に3つの鳥居があることからもわかる通り、鶴岡八幡宮の表参道ですね。

 

 

鎌倉幕府の歴史を記した『吾妻鏡』によると、若宮大路は1182年春、源頼朝が妻の北条政子の安産祈願のため、鶴岡八幡宮の参道として寄進したそうな。

 

 

我が子の安産を祈念して道を寄付するなんて…将軍様はやることが、いちいちデカい!笑

 

 

道路の築造にあたっては頼朝直々に指揮を執り、東国の武士たちに石を運ばせたらしいです。

 

 

これ、今でも若宮大路に名残がありまして…

 

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見づらいけど、真ん中が石段で上がってますな。

上の画像はなかなかわかりづらいんですが、車道に対して歩道が一段上がっていることがおわかりいただけますかね?

 

鎌倉に行ったことがある人ならピンとくるかもしれません。

 

 

二の鳥居から鶴岡八幡宮の入口にかけては、「段葛(だんかずら)」と言って、真ん中の歩道が一段高くなっているんです。

 

 

これこそが、頼朝によって寄進された参道の名残というわけ!

 

 

ただ、安産祈願のために急に思いついた道路というわけではなく、もっと前から計画はされていたみたい。

 

 

頼朝が鎌倉に政治の中心を築くにあたって、天皇のいる京に負けてはならん!」というプライドがあったようなのです。

 

前回の記事でもご紹介した通り、平安京は古代の都市計画における集大成とも言うべき、壮大な都でした。

 

京に負けない中心都市を築くためには、京の都市計画手法を鎌倉にも反映する必要があると考えたんですね。

 

 

そこで、平安京を象徴する朱雀大路にあたる通りとして、鎌倉の中心である鶴岡八幡宮からまっすぐと延びる若宮大路を真っ先に整備しました。

 

 

頼朝の強烈な京へのコンプレックスが、鎌倉の都市計画を誕生させたと言っても過言じゃないんですね!

 

 

(3)道路マニアの頼朝さん

ちなみに、頼朝は道路整備に傾倒していたという記録が残っているそうで。

 

現在の鎌倉の街を見てみると、若宮大路と並行方向(南北方向)に「小町大路」「今大路(現在名称:今小路)」、東西方向に「横大路」「大町大路」「車大路」という、合わせて6つの大路が整備されました。

 

 

平安京を参考にした碁盤目状の街を作りたい!」という、頼朝の並々ならぬ熱意を感じます。

 

 

 

ところが!

 

 

どうしようもない問題が1個だけありまして…

 

 

それが…

 

鎌倉は地形が複雑すぎて、全然碁盤目状に整備できない。笑

 

 

「天然の要塞」であることの代償として、余裕ある街区を整備できるほどの十分な平地がないんですよね。そりゃそうだ。

 

 

結果として、理想的とされた綺麗な碁盤目の街区は見られず、ただ一本まっすぐに延びる若宮大路が、若干の異質性を放っているというわけなのです。

 

 

なお、今でも目抜き通りとして存在感のある若宮大路ですが、鎌倉時代に整備された当時は、最大で幅が33mもあったそうな!

 

 

ひっろ!!!笑

 

 

(4)鎌倉のシンボル「鶴岡八幡宮

そうそう、若宮大路の行き着く先にある鶴岡八幡宮についても少し触れておきましょう。

 

 

鶴岡八幡宮は、1063年に河内源氏2代目当主・源頼義が、京の石清水八幡宮を勧請(かんじょう)したことに始まります。

 

つまり、頼朝にとっては祖先が祀った氏神ということになりますね。

 

 

当初は由比ヶ浜のあたりにあったそうですが、1180年に頼朝が現在地へ遷座しました。

 

 

頼朝は、鶴岡八幡宮を中心に据え、そこから若宮大路をまっすぐに整備。

 

若宮大路の東西に幕府の中心施設を建設し、京に負けない計画都市を生み出そうとしたのです。

 

 

都市の中心に源氏の氏神である鶴岡八幡宮を据えたのは、まさに「源氏が治める天下じゃい!」ということを、内外に知らしめる意味があったと考えられます。

 

 

そこに続く若宮大路は、頼朝や鎌倉幕府の権威を表すシンボルでもあったんでしょうね…!

 

 

こう考えると、都市計画はただ都市を整備するというだけでなく、その時々の権力者によるアピールという意味も多分に含んでいるのです。

 

 

 

ところで、鎌倉時代の鎌倉って、有数の過密都市だったと考えられているそうで。

 

現在の鎌倉中心部には約5万人が住んでいますが、当時の中心部の人口は約5万〜最大約10万人程度と見られています。

 

 

なんと現在の2倍もの人口密度だったってことですね!!そりゃ過密だ!!

 

 

過密都市・鎌倉の中で、若宮大路はかなり大きな役割を果たしていました。

 

 

住民たちの憩いの場となっていただけでなく、時には火事の延焼防止にも一役買っていたみたい。

 

当時の記録を見ると「若宮大路を境に火災が収まった」なんて話もちらほらあるそうですよ。

 

 

頼朝が権威のために整備した大通りは、結果的に鎌倉の街を救っていたというミラクル!笑

 

 

仮にそこまで考えて整備したのだとしたら、頼朝は都市計画の天才なのかも。

 

 

 

といったところで、今回は軽めに終了!!!

 

 

次回は、室町時代安土桃山時代における、城下町の都市計画などについてご紹介していく予定です!

 

お楽しみに。

 

 

《Vol.3に続く》

 

 

(参考URL)

sites.google.com

 

http://ssk-ws.cside3.com/new/library/refer/japanese/kamakura.html

 

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chimon