【2020年1月28日】鹿島神宮へエア参拝!(知っておきたい日本の社寺シリーズ2)《中編》
《この記事の文字数:4,991》
ちょっと読み応えアリ
どうも、chimonです。
今日は昨日に引き続き「知っておきたい日本の社寺シリーズ」の第2弾、「鹿島神宮」の中編をお送りします。
※2回シリーズ予定でしたが、1回分が膨大になるため、急遽3回シリーズにすることになりました。笑 その分、1回分が読みやすくなっているので許して!
鹿島神宮の概要、エア参拝(本宮に至るまで)を取り上げた《前編》をまだ読んでいない方はこちらから!
himekuri-nippon.hatenablog.com
では、さっそく続きから参りましょう!
3. エア参拝その2〜満を辞して本宮〜
(1)本宮社殿(本殿・拝殿)
高房社への参拝が済んだところで、いよいよ本宮への参詣です。
参道上にある拝殿でお参りしましょう。
上の画像を見るとわかりますが、拝殿はとても質素な造りです。素木(しらき)と言って、着色などをしない自然のままの木材が使われていますね。
ただ、これは参道から見る表向きの姿…!笑
実はこの社殿、一番手前の拝殿のほか、本殿・石の間・幣殿という計4つの棟からなる複合社殿になっているんですね。
この様子は、社殿の側面へ回り込んで見るとよくわかります。
上の画像が横から見たものですが、素木のシンプルな拝殿とは異なって、丹塗りと豪華な装飾が特徴的な本殿はとても鮮やかです。
社殿全体を見ると、参道側の拝殿の後方に幣殿、一番奥に本殿が配置されており、幣殿と本殿の間を結ぶように石の間が置かれているという構成。
なお、本殿のすぐ後ろには樹齢約1,300年と言われる御神木があります。杉の古木で、高さ約40メートルにも及ぶそう。
後述する通り、鹿島神宮境内は歴史のある大木が多いのですが、その中でもひときわ大きい!実際に見ると結構圧倒されます。
ところで、この本殿は徳川2代将軍・秀忠によって1619年に寄進されたもの。
伊勢の神宮における式年遷宮と同様、鹿島神宮でもかつては20年に一度の式年造営が行われていたようです。
※式年遷宮についてはこちら!
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それが9世紀頃から本殿のみの建て替えとなり、江戸時代初期には行われなくなりました。このため、現在境内に残る社殿の多くが江戸時代に建立されたものとなっているんですね。
特に初代将軍・家康と2代将軍・秀忠が残した社殿がメインで残っています。
前半でお話しした通り、鹿島神宮のご祭神である武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)は高天原(たかまのはら)きっての武神。
源頼朝をはじめ、数多くの武士から崇敬を受けました。
中でも、江戸幕府からの崇敬は相当なものだったようですね。
さて、この複合社殿ですが、一つ大きな特徴があります。
それは、社殿が北向きに建てられているということ。
ん?と思う方もいるかもしれませんが、実は日本の神社社殿の多くは、南向きもしくは東向きに建てられているんです。
これは中国由来の「天子南面」という考え方に基づくもの。要するに「皇帝や天皇などの天子は、南に向かって座する」ということですね。
北の空に浮かぶ北極星を中心に空が動いていることから、天子は北極星のある北の方角に座り、世の中全てを見渡すという意味合いがありました。
天子南面は日本にも導入されたわけですが、どちらかと言うと「太陽(アマテラス)の子孫たる天皇は、太陽に背を向けない」という意味合いのほうが大きいのかもしれません。
たとえば平城京や平安京などの都は、全て南向きに天皇の御所が配置されていますよね。
ところが!鹿島神宮の社殿は北向き。
しかもご丁寧に、東向きに伸びる参道に向かって垂直の向きで建てられている…
理由として有力なのは、前半でもご紹介した「大和政権の支配圏の東端に位置していた」ことが影響するというものです。
つまり、蝦夷地であった東北方面に睨みを効かせる武神であったため、北向きに配置されたのではないかということ。
さらに本殿の中にある神座(御神体を安置する場所)は、東向きに配置されていて、本殿の中央ではなく南西方に置かれているんだとか。
この独特な配置は出雲大社(いずもおおやしろ)に共通のもの(ただし出雲は方角が異なる)だそうで、一説によると出雲大社の当初の社殿を武甕槌大神が建てたからではないかと言われています。
(日本神話の「国譲り」の段で、それまで葦原中国(あしはらなかつくに)を支配していた大国主神(オオクニヌシノカミ)から、アマテラス率いる天津神(あまつかみ)に支配権を譲らせることに成功したのが武甕槌大神でした。この際、交換条件としてオオクニヌシが要求したのが巨大な神殿=出雲大社を建てること。となると、平定した張本人(神だけど)である武甕槌大神が神殿を建設した、というのもあり得る話ですよね。)
(2)仮殿
本殿向かい、高房社のすぐ脇に「仮殿(かりどの)」と呼ばれる社殿があります。
「仮」という名前の通り、かつて仮の本殿として建立された建物。
仮の建物だからなのか、全体的にシンプルな造り。拝殿と同じように素木(しらき)の素朴な感じがいい味出してます。
ただ、右の写真の向拝(礼拝する部分の上に突き出た庇<ひさし>)の下の蟇股(かえるまた:その名の通りカエルの後ろ足部分のように、下に向かって開いたような形の部材)と呼ばれる部分に着目してみましょう。
見づらいんですが、そこだけちょっと着色されているんですよ。
他にも扉や、破風(はふ)と言われる屋根の端にも着色や装飾が見られ、仮であれど本殿として使われていた名残を見ることができます。
現在の本殿が1619年に徳川2代将軍・秀忠によって整備されたという話をしましたが、旧本殿から新本殿に遷す間、御神体を一時的に安置しておくための社殿として、1617年に同じく秀忠によって、この仮殿が整備されたというわけ。
旧本殿を移築して、跡地に新本殿を建立するとなると、建設中御神体を置く場所がなくなっちゃいますもんね!ふむふむ。
なお、この仮殿は建設当時からすると、現在までに二度も移築されているそうで。
後編でご紹介する「奥宮(おくのみや)」も、かつての本殿を移築したもの。
となると、江戸時代の移築に関する技術ってハンパなく進んでいた、と言えそうですね!今でも移築って結構大変な作業なのに…江戸時代の知恵はすげえっす!
4. エア参拝その3〜鹿様!〜
(1)樹叢とさざれ石
本宮社殿や仮殿がある場所から、参道を東進します。
写真を見てもらうとわかりますが、参道沿いの木がまあ立派!!
古社というだけあって、樹齢何百年という古木がわんさかあるみたい。参道の場所によって、杉だったりヒノキだったり、はたまた広葉樹だったり、スゴい種類の木が植わってます。
鹿島神宮の境内に広がる森林を「樹叢(じゅそう)」と呼びます。
What's?
要するに、人が植えたんじゃない自然林のこと。約70ヘクタールのとんでもなく広い境内のうち、約40ヘクタールが樹叢なんですって!
まあ、さすがに参道沿いの木は人が植えたものでしょうけど。
それにしても境内に約600種以上の木が植わってるって言いますから、自然の宝庫ですな!
参道沿いにあるのが、上の写真にある岩。
その名も「さざれ石」。
あ!君が代のやーつ!
君が代の歌詞については、この記事でも取り上げましたね。
himekuri-nippon.hatenablog.com
君が代では「さざれ石の巌となりて」、訳すると「小石が大きな岩となって」という文脈で登場するわけですが…
「君が代のさざれ石って鹿島にあったんだ!」と思うと、そういうわけでもない。笑
というか「これが君が代で歌われるさざれ石です」っていう岩が、全国各地にありまして、真偽のほどは定かでありません!笑
そもそも君が代の歌詞自体、古今和歌集に収められている和歌が元、って言われてるので、どれもこれも眉唾物!!笑
ふーん…程度でいいと思います。
(2)神の使い、鹿様。
「鹿」島神宮と言うだけあって、境内には鹿園があります。
子鹿なんかもいて、これが可愛い。笑
何で鹿がいるの?という話なんですが、この鹿たちは「神鹿(しんろく)」と呼ばれる神の使いなんですね。
鹿様、です。笑
古事記の「国譲り」の段で、大国主神の元に武甕槌大神が派遣される、というお話をしました。
この際、当初は武甕槌大神の父である伊都之尾羽張神(イツノオハバリノカミ)に白羽の矢が立っていました。父が「わしの子供を行かせるのがいいっすよ!」と言ったために、武甕槌大神が行くことになったという流れ。
天照大御神(アマテラスオオミカミ)が伊都之尾羽張神に話をするにあたって、彼のところに行くには道が塞がっていて大変、ということで天迦久神(アメノカクノカミ)が使いとして派遣されました。
アメノカクさんの「カク」というのは、鹿児(カコ)のことを指すらしく…要するに鹿を神格化したものと考えられます。
よって、武甕槌大神が派遣されるきっかけを作った、神の使い=鹿ということ。
だから神鹿として崇められているんですね!
「かしま」という地名自体、元来「香島」と書いていたそうです。鹿様がいらっしゃるから「鹿島」になったのですね…鹿様ー!
ちなみに…江戸時代まで、鹿島神宮境内にはたくさんの鹿様が棲み着いていらっしゃったらしいんですが、いかんせん鹿様は害獣でもある。
幕府からも「神の使いだから殺しちゃダメ!」って札が立てられたけど、邪魔に感じる地元住民による狩猟が後を絶たず、幕末にはいなくなっちゃったんだとか…
あーあ…笑
その後、昭和に入ってから奈良の春日大社や神田明神から鹿様を譲り受けたんだそうで。
実は、奈良の春日大社から鹿様を譲り受けたって言うのは、いわば「逆輸入」なんです。
奈良公園でしかせんべいをたくさん食べることで有名な(笑)「奈良の鹿」こそ、春日大社の神鹿です。スゴい数いるのは、神の使いだからって大切にされてきたから。
もともと春日大社は、平城京に遷都したころ、奈良にある神体山の山頂に鹿島の武甕槌大神を勧請(かんじょう:祭神の分霊を他の場所に遷して祀ること)したのがルーツ。
実際に春日大社が創建されたのは、その後768年のこと。
鹿島から春日大社に武甕槌大神が遷った際、白い鹿に乗ってきたという「伝説」が残されていることから、鹿を神の使いとして大切にするようになったのです。
こう考えると、奈良の鹿って鹿島から来た白い鹿の子孫、とも言えますね。
だから、春日大社の鹿を鹿島に連れてきたっていうのは「逆輸入」ってこと。笑
これは前編でお話しした「武甕槌大神が中臣氏(のちの藤原氏)の守護神だった」という話が要因。
うわ…今回はほとんど「鹿様」の話で終わってしまいました…笑
ということで、急遽3回シリーズに変更!!!!!
明日いよいよ奥宮などへお参りして、完結とします!
お楽しみに。
《後編へ続く》
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chimon
(参考文献)
・中村啓信訳注『新版 古事記 現代語訳付き』角川文庫, 2009
・山折哲雄監修、田中治郎著『新版 面白いほどよくわかる日本の神様』日本文芸社, 2013
・神社本庁監修『神社検定公式テキスト①「神社のいろは」』扶桑社, 2012
※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。