【2020年5月26日】東名高速道路の全線開通記念日!〜日本における高速道路の歴史〜
《この記事の文字数:約5,700》
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前置きが長くなりましたが、今日は東名高速道路の全線開通から51年なんだそうで。
ってことで、今回は東名高速道路をはじめとする日本の高速道路について、深掘りしていきたいと思います。
1. 東名高速道路くんのプロフィール
正直わざわざ説明するまでもないですが、東名高速道路の概要をご紹介しましょう。一応ね、語るにはね、情報が必要だよね。
《東名高速道路くんのプロフィール》
東名高速道路って、通称だったのね!!
ちなみに、東名のバイパスとして並行して整備されている「新東名」は、本名も「新東名高速道路」です。へぇ。
東名の本名を見ると「第一」ってついてますが、当然「第二」もあるわけで。
「第二東海自動車道」と言った場合、主に新東名とその先の伊勢湾岸自動車道のことを指すんだそう。
言われてみれば、高速道ナンバリングで新東名も伊勢湾岸道も「E1A」という、東名の派生系扱いになってますな!
勘違いしがちなのが、東京〜小牧の高速道路だっていう点ですかね。
小牧JCTで中央道と合流して、わずか約7km先の小牧ICが終点。そこから先は名神高速道路となります。
東名って言うくらいだから、名古屋ICが終点なのかと思いきや、そういうわけじゃないんですね。
あれですね、「京浜急行」って言うくせに、終点は三崎口みたいなもんです。(例えが合っているのか?笑)
言わずと知れた日本の大動脈であり、日本で最も多くの人が利用する高速道路と言っていいでしょう。
東京側から出発すると最初のサービスエリアである、海老名SAは日本一の利用者数と店舗売上高を誇る、メロンパンで有名なSAですよね。笑
2. 日本高速道路史概論(大学の授業みたい)
今では、日本有数の高速道路となった東名ですが、そもそもどういった経緯で整備されたのでしょうか?
まずは、そこに至るまでの、日本における高速道路の歴史を簡単に振り返ってみましょう。
(1)菅原通済の高速道路計画
日本で高速道路の構想が初めて持ち上がるのは、昭和初期の1929年。
実業家として名を馳せていた菅原通済(すがわらつうさい)によって、東京・大阪間に自動車専用の高規格道路を建設しようという計画が立てられました。
その事業費は8,000万円、現在で言うところの約5,000億円!
実際、東名が全線開通した時点での総事業費が約3,400億円だったそうなので、大阪までってなると、それくらいかかるんでしょうね。
ところが!
当時の日本では欧米ほど自動車が普及していなかったため、「特に必要なくない?」となってしまい、計画は立ち消えになったそうな。ちょっと早かったんですね。
なお、翌年の1930年、彼は自らが開発した高級住宅地「鎌倉山」(神奈川県鎌倉市)へのアクセス道路として、実質的な「日本初の自動車専用道路」と言われる道路を建設しているのです!
菅原通済によって建設された自動車専用道路は、今でもちゃんと残っております。それが上の地図の赤線部分。
ちょっと見にくいですが、大船から鎌倉山を超えて、江ノ島の片瀬海岸へと続く道。
現在は上空を湘南モノレールが走っていますね。
※法律上の「日本初の自動車専用道路」は、1961年8月に開通した京葉道路。
(2)弾丸道路!
結局立ち消えになってしまった菅原通済の計画ですが、1930年代後半になって、今度は国家プロジェクトとして再び日の目を見ることとなります。
と言うのも、当時ドイツで整備されつつあった「アウトバーン」に刺激されて、「日本にも高規格の高速道路を作るべき!」という議論が持ち上がったのです。
そして、1940年には内務省によって、東京〜下関間の高速道路建設に関する調査(重要道路整備調査)が開始されます。
この高速道路計画は、同時期に議論されていた「弾丸列車」(戦前における新幹線構想)になぞらえて「弾丸道路」と呼ばれていたそうな。スゴいネーミング。笑
なぜ、この時期になって高速道路計画が持ち上がったかというと、鉄道需要が逼迫し始めていたという時代背景があったようです。
もっと物資を輸送したいけど鉄道はこれ以上増やせない…じゃあ車だ!
ってことで、物資輸送のための自動車専用道路の必要性が議論されるようになったというわけ。
重要道路整備調査の結果を受け、1943年、総延長5,490kmにも及ぶ「全国自動車国道網計画」が作成されました。壮大な計画ですな!!!
肝心の中身は、かなり軍事色が強いものだった模様。
機軸となるのは、現在の東名・中央道・北陸道・山陽道・山陰道といった感じです。要は太平洋側(瀬戸内側)と日本海側に幹線を整備して、縦方向を結ぶ道を整備するということ。
首都・東京や全国の主要都市、および重要な港湾(軍港)を結ぶのが役割とされていました。
そのため、東京〜神戸間(特に名古屋〜神戸間)は優先して調査が行われていた模様。名古屋〜神戸間は、具体的な設計や工事予算請求の手前までいってたんですって!
ただ、なんとなーく想像つくと思いますが、戦況の悪化に伴いこちらの計画も中断されることとなりました。
悲劇、再び。
(3)田中プラン
戦後になり、高速道路整備が一気に具体化することになります。
そのきっかけとなったのが、当時民間人だった田中清一(後に参議院議員になっています)が作成した「平和国家建設国土計画大綱(通称:田中プラン)」でした。
田中プランとは、日本において食糧の自給自足を目標とするもので、田中によって政府およびGHQに提出されました。
プランの屋台骨とも言える計画こそが、本州の中央部を貫く高速道路を計画すべし!というものだったのです。
さらに、中央部のメイン道路から枝分かれする形で、地方へも幹線道路を延長。
道路網の整備によって、地方も含めて資源開発を行おうという主旨でした。
こういった内容というのは、「日本を早いとこ自立させたい!」と思っていたGHQにとっても好都合だったので、あれよあれよと検討の土俵に上がっていったんですね!
ただ、田中プランにおいて、一点だけ議論を呼んだポイントがありました。
それが「東京神戸間を、中央道にするか東海道にするか」という点!
これって「現在の東名か中央道か」って話ではなく、「東名を内陸ルートにするか、沿岸ルートにするか」って話だったよう。
田中プランは、未開地域の開発に重きを置いていたので、中央道(内陸ルート)推進だったんですね。それに対し、より交通の需要がある東海道案でいくべきじゃないか、という意見が起こったのです。
結果、最終的には沿岸を通る東海道ルートに落ち着いて、現在の東名高速道路があるというわけですね。
中央に一本だけ、背骨のような幹線を通すってことが前提のプランだったので、こういった議論が起こったと考えられます。
ちなみに、神戸より先の中国地方でも背骨的な幹線を一本通すプランになっていたんですが、こちらは現在の中国道として、ほぼそのまま実現しています!
それだけ田中プランが、現在まで影響を及ぼしているってことなのです!
ちょっと話は逸れますが、これだけ道路を整備しようとしたらとんでもないお金がかかるはずですよね。
だって、東京・大阪間を整備するだけで5,000億円かかるって試算があったくらいですから!
戦後の厳しい財政の中で高速道路整備を可能にしたのが、道路特定財源制度でした。
1953年に道路特定財源制度が整備され、揮発油税(ガソリン税)を道路整備に充てることが決定されたのです。
この制度整備に大きく貢献したと言われるのが、かの田中角栄でした!なるほど。
こうした紆余曲折を経て、1957年に「国土開発縦貫自動車道建設法」と「高速自動車国道法」が成立。
晴れて「高速自動車道=高速道路」が、正式に整備されることとなったわけですね!
3. そして東名くん、誕生。
(1)日本初の高速道路「名神高速道路」
モータリゼーションの加速によって、高速道路整備の機運はますます高まっていきます。
自動車普及の勢いは凄まじく、乗用車台数は1955年度16万台→1965年度230万台へと、爆発的に増加しました。とんでもない勢いだ!!!!!
そして1963年、日本初の高速道路となる「名神高速道路」尼崎IC〜栗東IC間が開通します。(建設は1958年開始)
名神高速が最初に開通したっていうのは意外に感じるかもしれませんが、これまでの経緯を踏まえると、当然のように思えます。
そもそも戦前から名古屋〜神戸間の高速道路整備が優先されていたわけですし、何より、東名は中央道・東海道のルート検討に時間がかかってましたからね!
(2)お待たせ、東名だよ!
名神高速道路の建設開始から遅れること2年、1960年に「東海道幹線自動車国道建設法」が成立します。
法律の中で、「起点を東京都、終点を名古屋市付近として、横浜市・静岡市・浜松市などを経由する道路を整備する」旨が定められました。
要するに、中央道・東海道論争に決着がついたってことでしょうね。
この法律によって整備された国道だから、本名が「第一東海自動車道」なんですね!なるほど!!!
その後、1965年に東名の建設が開始。
1968年に、東京〜厚木間・富士〜静岡間・岡崎〜小牧間が開通します。
そして、51年前の今日・1969年5月26日、大井松田IC〜御殿場IC間が開通!東名が全線開通を果たしました!!!
いやあ東名の登場までには、これだけの経緯があったのです。長い。笑
4. 東名くんってスゴいのよ
(1)東名くんはお金を回しているらしい
東名が開通したことにより、日本一の大都市・東京と、名古屋や大阪といった大都市間の物流網が、一気に進化を遂げることとなります。
NEXCO中日本の資料によると、東京〜愛知間の貨物輸送に占めるトラック輸送の割合は、東名開通直後の1970年に約71%、2015年には9割以上まで上昇。
日本全国のトラック輸送量における、約半分を東名+名神が担うという、とんでもないモンスター高速道路になっているのです…!!
昨年、東名全通50周年に伴って公表された、全線開通から2019年までに東名がもたらした経済波及効果、いくらだと思います??
驚異の約60兆円!!!!!
50年間で60兆円って、とんでもない話ですよ、これ。
それだけ東名くんは、日本経済に多大な貢献を果たしてきたということなのです。
ありがとう、東名くん!
(2)新東名という歳の離れた弟が誕生
こんな貢献してきた東名くんですが、当然渋滞が慢性化する事態になりました。
ってか、東名くんが限界を迎えたのって結構早くて、全通からわずか2年後の1971年には、「2つ目の東名、作りますか?」って調査が開始されていたそうです。
どれだけ東名くんへの負担が大きかったかって話。
ただ、必要性は認識されていたものの、地形的な制約などもあって検討は遅々として進まず…
ようやく一部が開通したのは、2012年のこと…。だいぶかかったね…。
現在も一部区間で工事が進められていて、当初は今年度(2020年度)に全線開通の見込みだったのですが…
さまざまな障害が発生した結果、2019年に「全線開通は2023年度に延期」と発表されました。
それでも弟はかなり優秀なようでして、開通翌年の2013年時点で、東名兄さんの平均交通量は約4割減を達成。
兄弟合わせて、開業前よりも約14%交通量が増加したというデータが発表されています。
■NEXCO中日本「新東名開通1年後記者発表」資料
https://www.c-nexco.co.jp/images/news_old/3163/e67494c0f2f5bb870c04f4f37f655898.pdf
chimonも名古屋方面に向かう時は、絶対に新東名を使いますね…SAも充実してるし、何より高規格で最高速度が速いので気持ちがいい!!!笑
5. おわりに
久々にかなりのボリュームになってしまいましたが、高速道路の歴史って、相当時代背景とか権力者とかの影響を受けているってことがわかりましたね。
さらに、東名が内陸を通る可能性もあったってのは、衝撃的な事実でした。
新型コロナの影響で交通量がだいぶ減少している状況ですが、落ち着いた暁には、東名や新東名を車で走りながら、ちょっと旅行に出かけたいものです…。
ということで、今回はここまで!
長い文章でしたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
(参考資料)
・NEXCO中日本「日本を支え続けた東名高速道路「日本経済」への貢献」
https://www.c-nexco.co.jp/images/news/4456/f49cbc399d4359326e88c7e85d8b7ba8.pdf
・国土技術政策総合研究所資料「公平性の観点からみた中国地方の高速道路ネットワークの計画策定の経緯と検証−空間的応用一般均衡モデルを利用した帰着便益計測-」
http://www.nilim.go.jp/lab/bcg/siryou/tnn/tnn0515pdf/ks0515.pdf
・建設技術研究所「高速道路はいつ頃からつくられてきたのですか?」
http://www.ctie.co.jp/publishing/nazenaze/pdf/michi/1-7.pdf
・ユキサキNAVI「高速道路の歴史」
https://www.homemate-research-ic.com/useful/15000_facil_001/
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chimon