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【2020年3月18日】意外と知らない北海道の成り立ち《後編②完結》

《この記事の文字数:約7,400》

 読み応えアリ!

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いよいよ完結!

どうも、chimonです。

 

当初は2回シリーズの予定が、大幅に完結がずれ込んでいた「意外と知らない北海道の成り立ち」シリーズ。笑

 

4回目となる今回で、いよいよ完結です!

 

それでは早速!

 

■これまでの前編〜後編①を読んでいない方は、こちらからどうぞ!

himekuri-nippon.hatenablog.com

himekuri-nippon.hatenablog.com

himekuri-nippon.hatenablog.com

 

 

7. 「北海道」誕生

(1)戊辰戦争、最後の戦い

前回は、幕末にアイヌの人々へ対する強制種痘(天然痘のワクチン注射)が行われ、アイヌの人々は「土人」として、民族の独立性が失われていったというところまでお話ししました。

 

 

1867年、徳川第15代将軍・慶喜によって大政奉還が行われます。

 

大政奉還後、すぐに明治新政府の安定した政治がスタートしたというわけではなく、有名な戊辰戦争が勃発。

 

明治新政府軍 VS 旧幕府軍の激しい戦いが繰り広げられました。

 

 

その最終決戦の地として有名なのが、現在の函館。

 

いわゆる箱館戦争という事件です。

 

 

細かい話はまた別の機会に譲るとして笑、とにかく戊辰戦争における最後の戦いが、北海道の函館で繰り広げられたということが重要。

 

 

そもそも、何で函館だったのか?という話をしておきましょう。

 

 

実は「戊辰戦争」と言っても、段階によって目的とか性質とかが少し異なっていました。

 

 

箱館戦争の場合、それまで天下を収めていた徳川家が駿河国遠江国約70万石に移封となったことが直接の原因となっています。

 

江戸時代、徳川家の石高は700〜800万石に達していたと言いますから、実に1割程度まで減ってしまったということ。

 

こうなると、数万人と言われる旧幕臣たちの食い扶持がなくなってしまいます。

 

 

これを案じた旧幕臣の一人・榎本武揚(えのもとたけあき)が考えたことこそ、「新しく蝦夷地を開拓して、食い扶持作っちゃえば良いじゃん!」というものだったんですね!

 

旧幕府軍には「新たな開拓地を得るため」という目的があったので、最後の戦いの場が函館だったというわけなんですな。

 

ふむ。

 

 

榎本武揚を総裁とする蝦夷共和国という「政権」もあったのですが、結果的には新政府軍が勝利を収め、蝦夷共和国も解体されています。

 

新撰組副長の土方歳三が命を落とした戦いとしても有名ですよねー。

 

 

(2)ところで、松前藩は?

と、ここでちょっと気になるのが、蝦夷地をずっと支配していた松前藩の状況。

 

 

大政奉還直後の松前藩は、旧政府軍につくか新政府軍につくか、どっちつかずの状況でした。中立を保つことで、何とか藩を維持しようと試みたわけですね。

 

ところが、このどっちつかずが良くなかった。

 

「何じゃ、その優柔不断は!!武士の風上にも置けないのぉ!!」となって、正議隊(せいぎたい)という新政府派の軍隊がクーデターを起こし、実権を握ることになったのです。

 

 

蝦夷地を求めて攻め入る榎本や土方からすれば、新政府派に寝返った松前藩は邪魔でしかありません。

 

 

旧政府軍は函館を攻めた直後、松前藩の旧本拠地・松前を総攻撃。

 

(クーデターによって新政府軍についた時、「このままだと旧政府軍が攻めてくる!ヤバい!」ってことで、事前に「館城(たてじょう)」という新しい城を築いて、居城を移していたそうです。結局、館城も落城してるんですけどね…)

 

圧倒的な兵力差によって松前城は落城、この時に逃げた松前藩の兵士たちは、松前城や城下町に火を放っています。

 

一連の戦いの結果、松前の城下町は約2/3が焼失するという壊滅的なダメージを受けてしまいました…。

 

 

最終的には新政府軍が勝利し、再びこの地は松前藩の元に戻ってきました。

 

新しい居城から「館藩(たてはん)」を名乗るのですが、時すでに遅し…。

 

壊滅的な被害を受けた藩に、立て直す余力なんて残っていなかったみたい…。

 

おまけに、クーデターで政権を掌握した正議隊はやり方が強引で、藩の中にも反対派がいる状態。一大事だというのに、決して一枚岩ではなかったようです。

 

 

この辺りの話は、松前町役場のホームページに詳しく記載されています。

www.town.matsumae.hokkaido.jp

 

他にも、城下町の大火事や明治新政府の政策などにより、いよいよ財政が大ピンチ!!

 

最後は1871年廃藩置県によって館藩(旧松前藩)は廃止され、新しく「館県」が設置されることとなりました。

 

 

(3)命名「北海道」

箱館戦争に勝利したことで、明治新政府蝦夷地の本格的な開拓に着手します。

 

その足がかりとして、箱館戦争直後の1869年に設置されたのが開拓使でした。

 

要するに、蝦夷地を開拓するための政府機関。中央省庁だったそうですから、いかに新政府が「蝦夷地を開拓するぞー!」という野心に燃えていたかが分かります。

 

 

発足当初は、それまでの中心地だった函館に本庁が置かれていました。

 

 

ただ、この時代の明治政府ってとにかく財政難。

 

あれだけ激しく戦争してるし、そのせいで税収も落ち込んでるし…当たり前っちゃ当たり前。

 

 

だから、全国各地の藩とか寺社とかに分領統治させたらしい!

 

 

それぞれの藩に担当する地域を割り当てて、藩の財政力を使って開発させたというわけ。

 

 

まあ、想像つく通り、藩だってお金はないわけで…笑

 

 

多くの藩が大した実績を出せないまま、結局1871年には開拓使による直接統治(館藩を除く)に切り替わってるんですけどね!

 

 

開拓使が設置された直後、ついに蝦夷地に新たな名前が付されます。

 

 

そう、ここで初めて、正式に「北海道」と名付けられたのです!

 

 

そもそも「道」というのは、古く律令制の時代に定められた、広域的な行政区域のこと。

 

 

有名なところでは「東海道」なんかがあります。かつては五畿七道、あるいは畿内七道と呼ばれ、本州以南を畿内(京都・奈良・大阪・神戸あたり)+7つの「道」に分けていました。

 

 

で、開拓使が設置されたことで、正式に新たな「でっかい道(笑)」が追加されたということ。

 

 

「道」は良いとして、「北海」ってどっから来たの?というお話ですが、名付け親は幕末の探検家・松浦武四郎と言われています。

 

 

この人物、プライベート・お仕事合わせて6回も蝦夷地を探検しておりまして、当時としては無類の「蝦夷地フリーク」だったみたい。笑

 

 

彼が提出した道名に関する意見書では、全部で6つの候補が挙げられていました。

 

その中にあった「北加伊道」というのが、北海道の由来になったそう。

 

 

意見書の中では「加伊というのがアイヌの自称である」とされているみたいですが、別の説では「蝦夷」の音読みから来ているというものもあり、何で「加伊」なのかは諸説あるようです。

 

 

おそらく「東海道」「西海道」「南海道」と合わせる形で、最終的に「北海道」となったんでしょう。

 

 

こうした由来については、北海道のホームページでも解説されています。

www.pref.hokkaido.lg.jp

 

 

(4)その頃アイヌの人々は…

かくして開拓使による北海道開拓が始まったわけですが、元からこの地にいたアイヌの人々はどうなったんでしょうか?

 

 

その答えになるだろうものが、先ほどご紹介した「北海道の分割統治」の条件に記載されています。

 

 

Wikiさんによると、この際の条件に「既存住民と土人を差別しない」という文言があるのですね。 

ja.wikipedia.org

 

ということは、一日本国民として組み込まれているわけで、幕末から引き続き独立性が失われた状態とも捉えられます。

 

 

決定打となったのが、1871年に制定された「戸籍法」

 

この法律によって、アイヌの人々は日本の「平民」に組み込まれることとなりました。

 

 

また、開拓使の政策によって、次に挙げるようなアイヌ文化が禁じられることとなったのです。

開拓使によって禁止された主なアイヌ文化》

  • カソマンテ:ある家の妻が亡くなった際、死後の世界で家が建てられずに困らないよう、生前の住まいを燃やして弔う風習。
  • 女性の入れ墨:女性のイニシエーション。7〜8歳頃から腕に入れ墨を入れ始め、10代後半頃に完成させる。これがないと成人として認められず、儀式参加や結婚が許されなかった。 

 

北海道Walkerで、アイヌ独自の風習について特集されていました!

www.walkerplus.com

 

 

8. 屯田兵がやってきた

(1)開拓使十年計画

1870年、のちに総理大臣にもなる黒田清隆開拓使次官に就任すると開拓使十年計画」を発表します。

 

これには、急速に樺太への支配力を強める、北の大国・ロシアへの警戒感も大きく影響していたみたい。そうそう、樺太は「ロシアと日本で仲良く…(面倒だからとりあえず国境を引かない!)」という絶妙な立ち位置になってたんですよね。

 

 

開拓使十年計画では、10年間で1,000万円を北海道開拓に投じるとしました。

 

 

1,000万円…?ピンと来ない!笑

 

 

 

正直、1円をいくらと見るかはマチマチなんですが、日本銀行の基準(下記参照)を採用すると1901年の1円は、2018年時点で約1,515円の価値があることになります。

www.boj.or.jp

 

明治初期なので、もっと価値があったと考えると、ここでは約2,000円と想定しておきましょう。

 

 

すると…10年間で200億円ということになりますな。

 

 

あ、やっぱピンと来ない。笑

 

 

 

もう1つ、1870年の政府の一般会計歳出が1,900万円だそう。

 

こちらのページのデータを参考にしています。

sirakawa.b.la9.jp

 

ということは!年間の国家予算の約半分を、10年間で投資するイメージ。

 

現代の日本の国家予算を、分かりやすくざっくり100兆円と考えると…10年間で50兆円、年間5兆円投資するってこと…

 

 

これは!!!!!!!大事業だ!!!!!!!笑

 

 

 

翌年の1871年には、本庁が函館から札幌に移されます。

 

確かに函館は「これから開拓していこう!」って言ってる割には、南過ぎますよね。

 

 

(2)屯田兵…?

開拓使の政策の中で重要なものの一つが、屯田兵

 

聞いたことはある人も多いかもしれませんが、イマイチ何のことやら…。

 

 

屯田兵とは、簡単に言えば「開拓しながら、何かあったら戦っちゃうよ!っていう兵士」のこと。ざっくり!笑

 

 

当時の北海道っていうのは、開拓して生産性をアップするというだけでなく、北の大国・ロシアに対しての防衛力をつけるという意味合いも大きかったわけです。

 

だからこそ、有事の際には戦力として用いることができる屯田兵を投入した、ということ。

 

 

1874年、開拓使長官に昇格した黒田清隆の発案によって「屯田兵例則」が発布され、翌1875年に初の屯田兵が札幌郊外の琴似に移住しました。

 

 

屯田兵には、北海道の開拓・防御以外にもう一つ意味があったようです。

 

 

それが「武士の失業対策」

 

 

例えば旧松前藩。藩は無くなってしまったので、そこに仕えていた武士は職を失っていたんですね。

 

会津藩なんかも同様。

 

 

「職無くて困ってるし、いざとなれば戦えるし、ちょうど良いよね!」ってことで、当初は貧しい士族が次々と北海道に送り込まれました。

 

 

ただ、当時の屯田兵の生活はかなり厳しいものだった模様。

 

 

寒いのに暖房設備はないし、凶暴なヒグマに襲われて殺されるなんて事件も頻発するし…かなり大変な思いをしながら、開拓を進めていたみたいですね。

 

 

(3)ボーイズ・ビー・アンビシャス!

時を同じくして、1872年、東京に開拓使仮学校が開設されました。

 

北海道を開拓するための人材を教育する学校ですね。

 

 

ただ、近い将来、北海道に本格的な学校を建設する予定だったので、この時点では「仮学校」とされています。

 

 

それから3年後の1875年、いよいよ札幌の地に学校が移転し「札幌学校」と名付けられ、翌年には札幌農学校と改称されました。

 

 

札幌農学校の初代教頭として招かれた人物こそが、かの有名なクラーク博士

 

 

「あっちだよ、あっち」と言わんばかりの銅像と、「少年よ、大志を抱け」という名言でおなじみのクラーク博士ですね。

 

 

「教頭」と言いながら、実質的には校長的な役回りだったようで、自身が学長を務めていたマサチューセッツ農科大学のカリキュラムを移植。当時の日本としては画期的な、欧米式の教育を取り入れました。

 

クラークさんが日本にいたのはたった8ヶ月だったらしいのですが、札幌農学校はのちに新渡戸稲造内村鑑三などの超重要人物を多数輩出!クラークさんの残した功績は、北海道のみならず、日本の教育に大きな影響を及ぼしたのです。

 

 

この札幌農学校現在の北海道大学の前身となっているわけですが、他に北海道といえばサッポロビールもありますよね!

 

 

実はサッポロビールの前身も、同じく1876年に開拓使によって建設された開拓使麦酒醸造所」なのです!

 

 

先ほどのクラーク博士を筆頭に、北海道開拓には数多くの欧米人が招かれていて、多大なる貢献をしています。

 

ビールについても、「北海道は大麦作れるよ〜、ホップもいけるよ〜」といった具合に原料栽培を提案したのは、開拓使の外国人顧問だったそうですよ。

www.sapporobeer.jp

 

(4)アイヌ民族の悲運

ここまでは、開拓使の輝かしい功績といった感じでお伝えしてきましたが、一方でアイヌの人々にとっては厳しい部分もありました。

 

 

開拓使は北海道の開拓を進める上で、全ての土地を和人の私有地、もしくは国有地としたのです。

 

さらに、1877年には地租改正の流れの中で「北海道地券発行条例」を発布。アイヌの人々が持つ住宅地や農地までが、すべて国有地として管理されることとなったのでした。

 

平民として、和人と「平等」と言っておきながら、土地の私有を認めないというのは不思議な話。

 

 

そして1878年開拓使によってアイヌの人々には「旧土人という呼称が与えられます。

 

差別的な意味合いがあるとされる「土人」に「旧」をつけたということは、「日本の支配下に入った別民族の人たち」という意味合いを濃くしている印象を受けますね。

 

 

(5)そして、現代へ

開拓使十年計画も、いよいよ終わりが近づいた頃、1881年開拓使を廃止する方針が決定します。

 

長官だった黒田清隆は、計画終了後も北海道の開拓を進めるため(という名目で)、同じ薩摩藩出身者である五代友厚たちが作った「関西貿易商会」に、開拓使で整備した多くの設備や鉱山を払い下げることを決定しました。

 

1,000万円計画で作ったのに、払い下げ金額はなんと38万7,000円!格安!!!

 

ということで「安すぎるだろ!」と世論で反発が起こったり、その情報をリークしたんじゃないかってことで大隈重信が政界追放されたり、という大事件に発展していきます。

 

これが俗に言う開拓使官有物払下げ事件」

 

 

ちなみに、結局払下げは中止され、当初から1年遅れの1882年に開拓使は廃止となりました。

 

 

開拓使廃止後、函館県・札幌県・根室県という3県が置かれますが、1886年に3県を廃止して北海道庁が設置され、ほぼ現在の形になったと言うわけなのです。

 

当時の北海道は少し扱いが特殊で、「他の府県に準ずる」とされていた模様。

 

1904年には、「十分開拓できたよね」ってことで屯田兵も廃止されています。

 

 

アイヌ民族に関する大きな動きとしては、1899年に「北海道旧土人保護法」が制定されたことが挙げられますね。

 

これは文字通り、和人による一連の開拓が原因で貧困化してしまったアイヌの人々を「保護する」という目的で制定された法律。

 

「保護」という名の下、農地や医薬品などの供与、日本語や和人の風習に関する教育などが行われることになりました。

 

 

裏を返すと、もともとアイヌの人々が耕していた土地を国が没収するということであり、教育にしても同化政策が取られたということに他なりません。

 

しかも、土地の払い下げに関しては、明らかに農地向きでない土地を与えられたり、学校は和人と別学にして教育内容を変えたりと、民族差別的内容も多かったと言います。

 

 

この法律は問題視されながらも、1997年に「アイヌ文化振興法」が成立するまで効力を持っていました。

 

さらに、昨年2019年には「アイヌ文化振興法」に代わってアイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」が施行されています。

 

 

9. まとめ

いやあ、今回も大作!!!笑

 

ということで、軽く内容をまとめておきましょう。

 

こんな感じでしょうか?

 

いやあ、思ってたよりはるかに深い歴史がありましたね!

 

これでも明治の「北海道庁」誕生までしか深掘りしていないので、もっと近代の話も面白いんですよ!

 

 

いつか続きも深掘りしたいですね。

 

よく「日本人」って言葉を使いますけど、今回はあえて「和人」という言葉を多用しました。「日本人」って言ってしまうと、そこにアイヌの人々を勝手に含んでしまうという言葉の「アヤ」みたいなものがあるからです。

 

当たり前のように単一民族国家として捉えがちですが、実際には複雑な歴史というものがあるということを再認識してもらえたなら、この記事の価値はあったと言えるでしょう。

 

 

ということで、ひとまず「意外と知らない北海道の成り立ち」シリーズ、完結!!

 

 

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chimon

 

 

※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。