【2020年3月9日】春場所開幕!日本の国技「相撲」について調べてみた《中編》
《この記事の文字数:約4,200》
ちょっと読み応えアリ
どうも、chimonです。
春場所開幕に合わせて昨日からスタートした「相撲」シリーズ。
中編となる今回は、武士の時代になってからの相撲の歴史に焦点を当てていきたいと思います!
前編をまだ読んでいないという方はこちらからどうぞ。
himekuri-nippon.hatenablog.com
4. 相撲=武士の鍛錬
(1)武家相撲
前編でご紹介した通り、奈良時代から平安時代後期にかけては、宮中行事「相撲節会(すまひのせちえ)」で相撲が行われていました。
相撲節会は、健児(こんでい)と呼ばれる兵士の中でから、宮中警護にあたるエリート健児を選抜する行事になっていたという話もしました。
ただ、1174年を最後に相撲節会は終了。
この年代を見てみると分かる通り、ちょうど武士が力をつけ始めていた時代ですよね。
武士の戦い方というのは時代によって変化しており、特に平安時代から鎌倉時代中期(元寇あたり)までは、形式を重んじる一騎打ちが主流だったみたいです。
一騎打ちでは一対一の近接戦になるため、相撲のノウハウが実践に活かせる!
ということで、武士達の日常的な鍛錬のメニューとして相撲が好まれるようになります。
これが「武家相撲」。
宮中=貴族文化の中心にあった相撲が、武士主体のものになっていったということ。そう考えると、相撲って波乱の歴史を歩んできたのですね…!
(2)何だか急に将軍を身近に感じるお話
武家相撲として、武士に嗜まれることになった相撲。
特に、鎌倉時代はさかんに行われていたようです。
その理由の一つが、将軍が相撲好きだったからというもの!笑
鎌倉幕府成立期の1189年には、源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮で上覧相撲を開催したという記録が残っています。
当時の武士の中では、弓術・馬術と並んで相撲の技術が重要だったらしいのです。
頼朝は相撲が大好きだっただけでなく、「武士は相撲を身につけるべし!」として、相撲を奨励していたそうなんですねー。
これを聞くと、夕方の大相撲生中継を楽しみにしている現代のおじさんと近い感じがして、急に親しみが湧くのはchimonだけでしょうか…?笑
なお、鎌倉幕府の歴史を記した「吾妻鏡」には、この他にも数多く相撲についての記載があるそう。
頼朝の死後も鶴岡八幡宮での相撲は続けられ、三代将軍・実朝や四代将軍・藤原頼経も臨席したという記録があります。
有力な鎌倉武士も相撲が大好きだったらしいので、ある意味「相撲ブーム」が到来していたと考えて良さそうですね!笑
(3)相撲取りの登場
武士達の嗜みとして行われていた相撲ですが、鎌倉時代中期あたりから相撲を専門にする職人、つまり相撲取りが登場したと考えられます。
力士たくさん出現!とまではいかなかったようですが、神事相撲を中心に相撲集団が細々と活動していたみたい。
13世紀後半の「鶴岡放生会職人歌合(つるがおかほうじょうえしょくにんうたあわせ)」では、職人の一つとして「相撲人」という記述があるそう。この時代には、相撲取りが職業として認知されてたってことでしょうね!
◆職人歌合(しょくにんうたあわせ)
歌人が二組に分かれて、それぞれが詠んだ歌の優劣を競う「歌合」の一種。歌の詠み手が、ある職人になりきって歌を作った。
相撲取りが職業になった=相撲取りで食べていけるようになったということであり、このことは「見世物としての相撲」の確立を意味します。
現在の大相撲に繋がる流れとして、とっても重要なポイントです!
(4)それでも相撲は神事なのだ
少しややこしい話ですが、武家相撲と並行して、以前からの寺社に奉納される神事相撲は続けられていました。
先ほどご紹介した鶴岡八幡宮での相撲の話も、頼朝が武士達に相撲をさせたわけですが、これは同時に神事相撲としての性格も持っています。
と言うのも、頼朝による上覧相撲は、8月15日「放生会(ほうじょうえ:捕まえた生物を自然に放って、殺生を戒める行事)」の際に奉納されたものが始まりと考えられるのです。
さっき登場した「鶴岡放生会職人歌合」というのは、正に放生会の神事で行われた歌合だったんですね。
要するに、武家相撲の隆盛や見世物化の中にあっても、「相撲は神事である」という原則は変わっていなかったってことですな!
(5)武家相撲、一回退場
鎌倉時代に隆盛を極めた武家相撲ですが、吾妻鏡で記述されている1266年以降は、表舞台から姿を消しています。
室町時代にかけての資料は乏しく、一回武家相撲は廃れたんじゃないかと考えられるようです。
この理由がイマイチ調べても分からない、というか、本当に資料がないんだと思いますが…。
chimo的仮説では、(1)でお話しした戦法の変化が影響しているんじゃないか、と。
それまでの一騎打ちであれば、近接戦の相撲が実践にも応用できたはずです。
しかし、1274年と1281年に元寇が発生します。
相手は元ですから、日本式の儀礼的な戦い方は通用しません。
結果「一騎打ちなんかじゃやってられっか!集団戦法じゃー!」ってなったみたいなんですよね。そりゃそうだ。笑
こちらのページで、詳しく説明されていました。
集団戦法になると、武士の鍛錬としての武家相撲は意義が薄れるわけで…一回息をひそめるんじゃないかと推測します。
時期的にも合致するので、案外有力かも?
5. 一方その頃、京では
(1)アイツらはどこに行った?
ここまでは武家相撲の話をしてきましたが、ちょっと視点を変えてみましょう。
そこで一つ疑問が湧きませんか?
相撲節会に出てた相撲取り達はどこに行っちゃったの?と。笑
実は、この相撲取り達は京で食い扶持を見つけていたようなのです!
相撲節会が終了した後も、京の寺社では相変わらず神事相撲が奉納されていました。
相撲節会出身の相撲取り集団は、この神事相撲に活躍の場を見出していた模様!
ふむ。
つまり、先ほど出てきた職人としての相撲取りの起源の一つは、なんと京にあったのですね!びっくら!
(2)室町時代は相撲が盛んじゃなかった?!
室町時代になると、鎌倉時代ほど大々的に相撲が行われることはなくなったようです。
その様子から、結構世の中のWEBページなんかでは「足利将軍は相撲があまり好きでなかった」みたいな記述を見かけたのですが、実際そんなことはなかった模様。
むしろ、足利将軍も結構相撲好きだったみたいです。単に、相撲を特に奨励しなかったってだけの話。
その証拠に、こんな話が紹介されていました。
(前略)第6代足利義教が相撲見物をした、つまり上覧相撲が行われた記述がある。
義教は、正長元年(1428)の夏に、少なくない数の大名の屋敷を訪問して回ったという。そのときの口実が相撲見物だった。
室町時代の京都では、相撲が一種のブームとなっていたらしく、上洛ないし京都に屋敷を構える諸大名は盛んに見物に回った。外から相撲人がたくさん上ってくるが云々、という半ば非難の意味を含む落書きも都で見つかったという。
舞の海秀平著『大相撲で解く「和」と「武」の国・日本』より引用
この話を前提に考えると、室町時代の相撲というのは「武士の鍛錬」という意味合いはすでに薄れていて、むしろ「相撲人による娯楽」的な存在になってますよね。
「室町時代は相撲が盛んじゃなかった」というのは誤りで、正しくは「武家相撲の意味合いは薄れ、娯楽としての相撲がブームになった」と言うべきかもしれません。
一応、武家相撲も残ってるんですけどね。
(3)やっぱりあの事件は影響大!
室町時代が進むと、かの大事件が相撲にも変化をもたらすことになります。
それが、人の世虚しい…?
おうにんのらーん!笑
そう、1467年の「応仁の乱」です。
約11年間にも及ぶ戦乱によって、京の街は焦土と化してしまいました。結果、相撲人達は全国各地に散らばることになったのです。
戦乱によって没落した貴族達が、全国に京の文化を広めたことはよく知られるところですが、相撲も同様だったんですね。
京で専門の相撲人が行なっていた「京相撲」は、地方における「土地相撲」として根付いていくことになります。
土地相撲の広がりによって、各地で「俺は相撲で食ってやる!」という相撲人達が出現。
応仁の乱が、武士とは独立した相撲文化が根付くきっかけになったというわけなのです。
(4)勧進相撲っていう金儲け
室町時代に起きた変化としてもう一つ重要なのが、「勧進相撲(かんじんずもう)」の誕生!
そもそも勧進というのは、人々に仏の教えを説いて、仏教に入ることを勧める布教活動のことを指します。
しかし、時代が経るにつれて、寺社の修繕のために寄付金を募る行為を指すようになっていきました。
当初は「寺社を修理するから、信者の皆さーん、お金を寄付して〜」というだけだったのが、鎌倉時代半ばあたりから興行型の勧進なるものが登場。
要するに、各種芸能を開催して、「寺社の修理費用に充てます」という名目で観客から観覧料を徴収するっていうやり方の勧進です。
現代で言うところのチャリティーコンサートみたいなもの?
その中で、室町時代の1419年、山城国伏見の寺院造営のため勧進相撲が行われたという記録があるそう。
古くから神事相撲として奉納されてきたわけですから、勧進との相性はかなり良かったはずですよね。ってか、むしろ何で長い間結びつかなかったのかが不思議なくらい。
ただし、室町時代としての記述はこれ以外にほとんどなく、勧進相撲が本格化するのは戦国時代以降の話。
なお、何となく予想がつきますが、「勧進相撲」なんていうのは名目上のものになっていきます。笑
時代が下ると、お金儲け臭プンプンの「土地相撲」が「勧進相撲」という名で、積極的に執り行われるようになっていくのです。
「神事としての意味合いが濃い」相撲を金儲け的にやる、ってことに対してのカモフラージュだったんですかね?笑
そして、時代は戦国時代へと突入していくわけですが…
相撲大好きな大物が登場し、勧進相撲はさらなる成長を遂げていくのでした…!!
《後編へ続く》
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chimon
(参考文献)
・茂木貞純監修『日本人なら知っておきたい![図解]神道としきたり事典』PHP研究所, 2014
・舞の海秀平著『大相撲で解く「和」と「武」の国・日本』ベストセラーズ, 2017
※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。