【2020年3月8日】春場所開幕!日本の国技「相撲」について調べてみた《前編》
《この記事の文字数:約4,700》
ちょっと読み応えアリ
どうも、chimonです。
新型コロナウイルスの影響で無観客での開催となっていますが、今日から大相撲春場所が開幕しました。
そこで今回は、以前にリクエストもいただいていた日本の国技「相撲」について深掘りしていきたいと思います!
と言っても、ルールや番付に関してのことは別のサイトにお譲りします…笑
本ブログでは、あくまでも歴史や背景を中心に、3回シリーズでご紹介!前編では、相撲の起源を中心にお送りしていきます!
1. こうして相撲は始まった
(1)相撲って争いのことなの…?
最初に「相撲」という名称そのものに注目してみましょう。
由来については諸説あるようですが、「争ふ(すまふ)」「争ひ(すまひ)」のどちらかから変化したものとされています。
「争ふ」という言葉の意味は読んで字のごとく、つかみ合って争うこと。
元は「すもう」って、争うこと自体を表す言葉だったんですね。
この後ご紹介する第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代あたりまでは、「素舞(すまい)」と呼ばれる呪術的な舞があったそう。
シコを踏むことで、その土地の地下にいる邪鬼を追い払うという意味がありました。
「醜女(しこめ)」なんて言葉がありますが、シコも元々は「醜」と表記していたんですね。現在おもに使われる「四股」という字は、後から充てられたものです。
それが古墳時代にかけて、今度は相手役が加わるようになります。ヒール役みたいな感じ?笑
悪霊と戦う姿を表現した神事に変化したので「相舞(すまい)」と呼ばれるようになっていきました。
やがて、現在の「相撲」という表記に変わっていきました。
「撲」って、「うつ」「なぐる」ことを示す漢字…つまり、相撲は「お互いになぐり合う」というとてもストレートな暴力を表す言葉なんですよね!
実際、後ほどご紹介しますが、古代の相撲はなかなか激しかった模様…!
(2)古事記、信じるか信じないかはあなた次第。
続いて、相撲の起源についても見ていきましょう。
主に起源として語られるのが、古事記と日本書紀に出てくるお話。
まずは、古事記からお伝えしましょう。こっちの方が古い話なんで。ってか、神様のお話なんで!笑
古事記の中で相撲の起源とされているのが、国譲りの段における建御雷之男神(タケミカヅチノオノカミ)VS.建御名方神(タケミナカタノカミ)の争い。
とーっても簡単にご紹介しますと…
天照大御神(アマテラスオオミカミ)の命を受けて、 高天原(たかまのはら)から地上の葦原中国(あしはらなかつくに)に派遣されたのが、高天原きっての武神・タケミカヅチ。
タケミカヅチは、葦原中国を治めていた大国主神(オオクニヌシノカミ:出雲大社のご祭神)に「わしらアマテラスの仲間に国の統治権を譲れや!」と迫ります。
オオクニヌシは「分かった!ただ、二人の息子に聞いてみて!二人がOKなら譲るから〜」と答えました。
そこで、タケミカヅチはオオクニヌシの二人の息子に国譲りを迫ります。一人はあっけなく了承するのですが、力自慢だったタケミナカタは「ふざけんな!力比べで勝負だ!!」と応戦。
結果、タケミカヅチ圧勝。国譲り完了。ちゃんちゃん。
ってな感じです。笑
いずれ「超意訳!古事記」シリーズで取り上げます。
あ、ちなみにタケミカヅチは鹿島神宮のご祭神でしたね!何度も出てきてますが、こちらの記事をご参照ください。
himekuri-nippon.hatenablog.com
これが「相撲の起源」と言われているわけですが…だとすれば、神代に起源があるということに!
こりゃ間違いなく最古です。
ただ、信じるか信じないかは…読者のあなた次第でしょうね。笑
(3)ちょっと信憑性が上がる日本書紀
古事記の話は、あまりにも信憑性が疑わしいので…笑
一般的に起源とされているのは、日本書紀に記載がある、野見宿禰(のみのすくね)VS.当麻蹴速(たいまのけはや)による一戦。
時は第11代垂仁天皇の御代(みよ)、大和国に当麻蹴速という最強の力自慢がいました。彼は「命を懸けた本気の戦いがしたいんじゃ!!!」と言ってたそうな。
これを聞いた垂仁天皇は出雲国にいた勇士・野見宿禰を呼び寄せ、垂仁天皇7年7月7日に相撲を取らせました。
当麻蹴速は腰をへし折られて死んじゃいました。
野見宿禰の勝ちー!
…?!笑
相撲だって言ってるのに殺しちゃってるし!
ってか、相撲だって言ってるのに蹴ってるし!
何なら「当麻蹴速」って名前自体、キックの名手だって言ってるようなもんだし!笑
どうも古代の相撲は、キック・パンチありの言わば「総合格闘技」状態だったみたいです。
これが、日本初の天覧相撲(てんらんずもう:天皇が観戦する相撲)と言われています。
うーん…
だとすると、相撲に近しいものはもっと前から存在していたと考えるべきですよね。
まあ『相撲は人間の闘争本能の発露である力くらべや取っ組み合いから発生した伝統あるスポーツ』(日本相撲協会「相撲の歴史」http://www.sumo.or.jp/IrohaKnowledge/sumo_history/)とされているので、自然発生的なものだったんでしょう。
垂仁天皇代、正式に行われた取っ組み合いを「相撲の起源」としているだけの話かもしれません。
なお、相撲をかたどった埴輪も発掘されておりまして、こんな記事を発見しました。
この記事の内容を考慮に入れると、野見宿禰のような出雲出身者が相撲誕生に大きく関わった可能性はありそうですね。
時代は全然合わないですけどね!!笑(垂仁天皇7年って紀元前ということになっているので!)
とは言え、古墳時代には誕生していたと考えて良さそう。
2. 相撲は神事なのだ
(1)相撲節会(すまひのせちえ)
ここまでの話は、ぶっちゃけ「伝説」と言うべき範囲。
実際に史実として相撲が出てくるのは、第35代皇極天皇(こうぎょくてんのう)の御代。
皇極天皇と言えば、律令制を確立した天智天皇・天武天皇の母ですね!
himekuri-nippon.hatenablog.com
これも日本書紀に登場する話ですが、次のような記述があります。
秋七月甲寅朔壬戌、客星入月。乙亥、饗百濟使人大佐平智積等於朝。或本云、百濟使人大佐平智積及兒達率 闕名・恩率軍善。乃命健兒、相撲於翹岐前。
ざっくり訳すと、「秋七月に百済から使者がやってきたので、宴会で健児(こんでい)に命じて相撲を取らせた」という内容。
野見宿禰VS.当麻蹴速も7月7日でしたが、これも7月のお話。どうやら当初から、7月7日の七夕にまつわる行事の中で相撲が執り行われるのが習慣だったよう。
7月に行われたこの宮中行事を「相撲節会(すまひのせちえ)」と呼びました。
実際、奈良時代の719年には式部省に「抜出司(ぬきでし・ぬきでのつかさ)」という役職が置かれます。抜出司は臨時職として6月ごろに任命され、相撲節会の準備・進行を司る役職だったみたい。
中国の七夕伝説が日本にも伝わり、七月七日に天皇が豊作と国家安泰を占う相撲節会(すまいのせちえ)を見て、文人たちに七夕歌を作らせる行事があった。七夕の相撲は、古くは日本書紀の垂仁天皇記に野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)の勝負の記述があり、養老三(七一九)年に諸国から相撲人を選抜する抜出司(ぬきでのつかさ)も置かれた。
桜川ちはや『女と男の万葉集』より引用
上記の内容を見れば推測できますが、奈良時代になると、さすがに「キック・パンチ・殺し合い」みたいなのは禁止事項になった(一説では聖武天皇の時代と言われています)みたいです。笑
そして、もう一つ大切なのが『豊作と国家安泰を占う相撲節会』という部分。
要するに、相撲は神事として執り行われていたわけですね。ここ、テスト出まーす!笑
(2)やっぱり神事なのね
相撲節会とは別に、神社における神事の一つとして相撲が行われていました。
その名も「神事相撲」!そのまんま!笑
どっちが勝つかによって、その年の豊凶を占うとともに五穀豊穣を願いました。
結局神事相撲と相撲節会のどっちが起源なのか、というのは野暮なのかも…。
なぜなら、神道というのは元々民間信仰から生まれたものだから。
民間信仰として、全国各地で土着の神が信じられてきたわけです。そして、大和朝廷が権力を強めるとともに、アマテラスを頂点とした一つの信仰体系の中に組み込まれていったという経緯があります。
きっと神事相撲も、土地それぞれの形で奉納されていたんじゃないでしょうか。
素手で戦って占う、って結構原始的な気がしますしね。
ところで、この神事相撲、基本的には「一勝一敗」とか「豊作を表す側が必ず勝つ」とか、そういう暗黙のルールがあることがほとんどみたいです。
八百長だ…!!!
失礼しました。取り乱しました。
現在でも、神事相撲は全国各地の神社で続けられています。
(3)戦士選抜相撲大会!
少し話は変わりまして、天智天皇によって、日本初となる全国的な戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」が作成された670年あたりから、全国的な徴兵制度が敷かれることとなりました。
国民を戸籍で管理することによって、計画的に徴兵することが可能になったというわけ。
こうして徴兵されたのが「軍団」と呼ばれるもので、天皇を中心とした中央集権国家の基礎になる存在のはずでした。
ところが、奈良時代に早くも律令制が乱れ始めると、軍団が私物化されるという事態が発生。
第45代桓武天皇は、律令制の再建を目指して軍団を廃止。代わりとして「健児(こんでい)」という組織を整備しました。
この健児、さっきもチラッと登場しているのですが、時代の中で意味合いが変化しています。
桓武天皇が整備した健児というのは、簡単に表すならば「各国のお役人子弟から選抜された警護団」。
各国で定員が決められていて、戦いのセンスがある人を選抜して軍隊として組織したんですね。
で、健児の中でも特に武力のある人を宮中警護に充てていたんですって。
ということは、宮中警護を行うエリート健児の選抜が必要になるわけです。
エリート健児を選抜する…
あ!良いイベントがあるじゃん!!
そう、相撲ってのは健児の強化に用いられていたこともあり、相撲節会がエリート健児選抜行事として機能するようになっていったのです。
ふむふむ。
ただ、時代を経るにつれてどんどん相撲節会の行事化が進み、いつの間にか健児の選抜という色合いは薄まっていきました。
相撲を取る人間も固定され、行事そのものが豪華になり…
平安後期の政情不安によって、1174年を最後に相撲節会は廃止となりました。
宮中催事としての相撲は姿を消すわけですが、むしろ「健児の強化に用いられていた」という点が重要。
だって、この後は武士の時代ですからね!!!
武士の嗜みとして、相撲は確固たる地位を固めていくことになるのでした…!
ということで、今日はここまで。
《中編へ続く》
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chimon
(参考文献)
・茂木貞純監修『日本人なら知っておきたい[図解]神道としきたり辞典』PHP研究所, 2014
・山折哲雄監修、田中治郎著『新版 面白いほどよくわかる 日本の神様』日本文芸社, 2013
・桜川ちはや著『女と男の万葉集』Cccメディアハウス, 2010
※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。