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【2020年2月16日】恋愛の日本史《後編》〜自由恋愛、万歳〜

《この記事の文字数:約4,600》

 ちょっと読み応えアリ

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恋愛と食は自由であってほしい。

 

どうも、chimonです。

 

今日は昨日に引き続き、「恋愛の日本史」の後編をお送りします!

 

 

まずは、前編をまだ読んでいない方はこちらからどうぞ!

himekuri-nippon.hatenablog.com

 

3. 武家社会では恋愛NG?

(1)武家社会は嫁入りを生んだ

前編でお話しした通り、平安時代ごろまでの日本では、子供を育てるのは母方の家でした。

 

源氏物語」に見られるように、天皇にほど近い貴族の間でも、夫が妻の元に通う「妻問婚(つまどいこん)」が一般的だったのです。

 

こうした状況に少しずつ変化が見られるようになります。

 

大きな影響を及ぼしたのが、武家社会の誕生。

 

 

平安時代半ばあたりから、武家において「嫁入り婚」が見られるようになってきたのです。

 

この理由として考えられるのが、武士は自らが担当する所領から離れることができないという事情があったようです。

 

例え結婚したとしても所領から離れられないため、妻の方が夫の元に嫁ぐという形式が取られるようになったんですね。

 

 

とは言え、当初は武家社会だけのお話。

 

公家社会や庶民の世界では、依然として妻問婚が中心でした。

 

 

公家と武家で婚姻する場合、公家は婿取り婚、武家は嫁入り婚を前提としていましたから「どっちで行くべ?」という問題になった模様。

 

ただ、平安時代後期に武家が力を持つようになってくると、武家の様式に従って嫁入り婚の形式が取られることが増えてきます。

 

 

(2)嫁入り婚が女性の立場を変えた

武家社会の進展によって嫁入り婚が広まったことが、なぜ恋愛に影響を及ぼしたと考えられるのでしょうか?

 

それは嫁入り婚が女性を「道具化」した面があるからなのです。

 

 

かつての「婿入り婚」では、妻は実家の財産を後ろ盾としていますから、仮に離婚したところで特に不自由は生じません。

 

事実重視主義なので離婚も比較的容易。

 

自由恋愛で結びついた夫婦は、まさしく対等な関係にあったと言えるでしょう。

 

 

ところが、嫁入り婚では、妻は夫の実家に入ることになります。

 

すると、夫は妻を、自らの所有物として扱うようになっていきました。

 

 

武家社会では政略結婚が重視されるようになり、これが、ますます妻の「所有物」としての性格を色濃くします。

 

 

もはやこの時代の上流社会においては、男女の自由恋愛は存在し得ません…。

 

 

(3)不倫は重罪!

そんな妻の地位低下を感じさせる話をもう一つ。

 

 

もともと不倫というのは、(あのドロドロとした何でもありの)平安時代ですら、社会通念上よろしくないこととされていました。

 

武家社会になるとこの考え方はさらに強められ、鎌倉時代に制定された御成敗式目では「不倫したら、姦夫(かんぷ:既婚女性と姦通した男性)は領地半分没収!女性も同罪!」という条項が定められました。(密懐法:びっかいほう)

 

これに関して「婦敵討(めがたきうち)」というものも行われていたそうな。

 

婦敵討っていうのは、不倫が発覚した場合には本来の夫が姦夫を殺害するというもの。

 

姦夫が妻のいる自宅に通っている現場を押さえて殺害する場合は、慣習法的にOKとされていました。現行犯逮捕的な感じですかね。

 

 

ただ「この人、妻に不倫されました〜」って周囲に知らしめるに等しい行為なので、実際には秘密裏に示談して済ませるっていうことも多かったみたいです。

 

 

ただ、この婦敵討には問題がありまして…

 

現行犯逮捕じゃない場合、不倫の生き証人である姦夫を殺害してしまう=不倫の証拠が消えてしまうことに繋がり、本当の夫が姦夫の遺族から殺人罪で訴えられていたようなんです。

 

 

ああ…そりゃそうだ…。笑

 

 

 

ところが!

 

室町時代になると、婦敵討に関するとんでもない判決が出ます。

 

それは「夫が不倫した妻を殺せば、その殺害の原因を作った姦夫を殺しても無罪」というもの。

 

 

ちょっと何言ってるか分かんないっす。笑

 

 

さっぱり分からないですけど、これをきっかけに「姦夫姦婦殺害」が室町時代以降、武家社会で広く取り入れられるようになったのです。

 

 

 

このことが意味するのは、家における夫の権力が凄まじく増していたということ。

 

妻が不倫すれば、夫が妻を殺してしまうことさえ許されたわけですから…。

 

 

 

自由恋愛というのは、ある程度男女が対等な関係にあってこそ成立するもの。

 

夫の権力が増大したという点から見ても、武家社会では自由恋愛が難しかったということが分かりますね。

 

 

(4)私は頼朝さんが好きなの!信じてるの!!

そんな政略結婚が常識になりつつあった平安時代後期〜鎌倉時代武家社会で、自らの意思を貫いて恋愛結婚を成し遂げたと言われる女性がいます。

 

 

その女性は、北条政子

 

 

誰もが知る、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の妻ですね。

 

 

彼女は、平氏との戦いに敗れて伊豆に島流しとなっていた頼朝と恋に落ち、父親の強い反対を押し切って結婚したと言われているのです!

 

彼女の強い思いもあって、結果的に父親にも結婚を認めさせました。

 

 

頼朝亡き後、彼女が大活躍したことは広く知られるところ。

 

 

自由恋愛の灯火が消えかけていた時代にあっても、自らの思いを大切に生きた女性もいたのですね。

 

 

4. 庶民は自由恋愛続きまーす

(1)江戸時代の武家に生きる女性は大変や

自由恋愛が許されない武家社会の構図は、江戸時代になってますます強まることになります。

 

朱子学を中心とした儒学の本格採用によって、士農工商をベースにした身分制度が厳格に定められると、父を絶対的な頂点とする家父長制が確立されていきました。

 

そうなると、当然家の中での妻の地位というのは、ますます低くなっていくわけですね。

 

 

戦国時代が終わって泰平の世が訪れたわけですが、武士たちの今度の関心事は「良い官職に就くこと」

 

官職は、個人ではなく「家」に与えられるものだったため、上流階級になればなるほど政略結婚の重要性が高まりました。

 

 

つまり、お偉い武家の生まれであるほど、自由恋愛なんて遠い夢のまた夢だったんですね…。これは世界共通かもしれません…。

 

富と権力を手に入れる代わりに、自由を失うものなのです。

 

 

(2)庶民は隠れて自由恋愛?!

ただし、ここまで話してきたのは、あくまでも上流階級のお話。

 

庶民に関しては、多少の自由恋愛はあったようです。

 

 

とは言え、江戸時代には家父長制が庶民層まで浸透していたため、親が決めた縁談によって結婚することが大半でした。

 

成人男女がおおっぴらにデートするなんていうことは難しく、こっそり文通して、会うときも夜の暗がりで…という、恋愛禁止の学校に通う高校生みたいな甘酸っぱい(?)恋愛を繰り広げていたようです。

 

 

一部の庶民は、偶然を装ってこっそりデートするなんてこともあったのだとか!学校の帰り道に待ち合わせて、ちょっとだけ一緒に帰るみたいな感じでしょうか?!

 

やっぱり恋愛禁止の学校に通う高k…(以下略。笑)

 

 

江戸時代の結婚・恋愛事情がまとめられている記事があったので、参考までにどうぞ!

mag.japaaan.com

 

 

ちなみに庶民の場合、自分たちで結婚を決められなかったとしても、古くからの結婚の形が残っていたようで、夫婦の関係はかなり対等に近かったようです。

 

例えば、妻の持っている着物を夫が勝手に売ることはできなかった。当たり前のように感じるかもしれませんが、武家社会においては妻も夫の所有物といった感覚があったため、妻はもはや「財産を持つこと」すら認められなかったという側面があるのです。

 

庶民は生活が大変だったでしょうけど、上流階級の人々からしたら羨ましかったかもしれませんね…。

 

 

当たり前って、繊細なものだな…。

himekuri-nippon.hatenablog.com

 

 

5. 恋愛に憧れるけれど

(1)家父長制、完成。

明治維新とともに、長く続いた武家社会が終わりを告げます。

 

さあ、これで自由恋愛の世の中がやってきた!

 

 

と思いきや、むしろ逆…

 

 

 

明治に入った1898年、明治民法が発布されます。

 

この明治民法は、それまで武家社会を中心に取り入れられていた家父長制を、広く一般庶民にまで規定するものでした。

 

 

女性は生まれると父親に従い、結婚すれば夫に従い、大きくなったら息子に従う…という、とてつもなく男性優位な制度が確立されたのです。

 

 

同じく明治時代に制定された「姦通罪」は、妻が他の男性と男女関係を持った場合、夫は妻と姦夫両方を罪に問うことができました。

 

一方で、夫が他の女性と男女関係を持つことは罪に問われませんでした。

 

 

要するに、男性は結婚後も婚外恋愛することが認められていたのに、女性は親から決められた相手と結婚したら最後、その人以外と恋愛することはできなかったということ。

 

 

こうした状況は、戦後の日本国憲法制定まで制度上は続いていたので、自由恋愛が完全に解禁されたのは戦後、ということになりますね。

 

 

(2)恋愛に憧れる流れと工業化

そんな明治〜大正期、人々は自由な恋愛に憧れていた面があるようです。

 

考えてみれば、その時期の著名な文豪の作品には、数多くの恋愛模様が描かれていますもんね。

 

 

大正ロマンなんて言いますが、大正になると、こうした文学作品などに影響されて「ああ素敵な恋愛をしたいわ」っていう人が増えてきます。

 

実際にはハードルが高く、古くからの家父長制を前提とする親と対立することも多かったようですが。

 

 

ただ、この時代に自由恋愛の最大の障害になっていた家父長制に少しずつ綻びが生じてきます。

 

 

その原因となったのが、工業化

 

 

 

家父長制が存立する条件として、家業以外に食い扶持がないことが挙げられます。

 

家業以外に食い扶持がないからこそ、家業のトップにいる父に従わなければならないのです。従わなければ生きていけないんですから。

 

 

ところが大正期になると工業化が進んだことにより、勤め人という概念が出てきます。

 

そうなると、父に従わなくても生活費を稼ぐ当てができますよね。

 

この流れこそが、家父長制を衰退に向かわせ、自由恋愛の時代への道筋を作ったというわけ。

 

 

6. まとめ

二日間に渡り、恋愛の日本史をお伝えしてきました!

 

前後編合わせてポイントをまとめると…

 

  • 古代においては、農業のための人手確保が優先事項だったので、好きな男女が好きに子供を作るというのが一般的だった。
  • 平安時代にかけては、妻の元に夫が通う「妻問婚」が中心になった。この時代も比較的恋愛は自由だった。
  • 平安時代後期から武家社会が台頭してくると「嫁入り婚」が見られるようになり、上流階級では政略結婚が中心になってきた。それによって、自由恋愛が難しくなった。
  • 家父長制が浸透した江戸時代、上流階級では自由恋愛はほぼ不可能。一方で、庶民は比較的自由な恋愛を楽しんでいた。
  • 明治民法によって、家父長制が確立され、男性優位の婚姻制度が制定される。それ以降制度上は、戦後の日本国憲法制定まで自由恋愛は難しかった。
  • ただし、大正期の工業化によって家父長制が次第に衰退。一部では自由恋愛に憧れ、それを目指す人も現れた。

 

 

いかがでしたでしょうか?

 

こうやって見ていくと、今当たり前のように好きな人と愛し合って、一生を添い遂げられるってことがどれだけありがたいことか、身にしみますね…!

 

 

ぜひ皆さんも、大切なパートナーに何かプレゼントしましょう。

 

「私を愛してくれてありがとう」と伝えながら。

 

 

長くなりましたが、今回はここまで! 

 

 

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chimon

 

 

(参考文献)

武光誠著『日本人なら知っておきたい日本』育鵬社, 2018

 

 

※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。