【2020年1月17日】地震と日本人〜阪神・淡路大震災から四半世紀〜
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ちょっと読み応えアリ
どうも、chimonです。
ちょうど25年前の今日、1995年1月17日早朝。
大都市・神戸と淡路島を中心とした地域を襲った大地震、阪神・淡路大震災。
私自身は東京にいましたが、当時祖父母が神戸に暮らしていたため、朝のニュースで流れる惨状や、刻一刻と被害情報が更新されていく様子を鮮明に覚えています。
もう四半世紀が経つのですね…。
そこで今回は「地震と日本人」と題して、地震にまつわる日本史を一部紹介していきたいと思います。
1. 古くから地震に襲われていた日本
(1)最古の記録「允恭地震」
ご存じの通り、日本は地震大国。
世界における地震エネルギーの1割が、この狭い島国で発散されていると言われるほど、どこかしらで地震が起きています。
当然古くからそうだったようで、地質調査によって、古代においても幾度となく地震に襲われていたことが明らかになっているのです。
では、記録に残っている最古の地震っていつなんでしょうか?
それは『日本書紀 巻第十三』に記されている地震、と言われています。
第19代允恭(いんぎょう)天皇の御代(みよ)、允恭天皇5年(西暦416年:諸説あり)に、当時の都だった遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)で地震があったということが記されているのです。
五年秋七月丙子朔己丑、地震。先是、命葛城襲津彥之孫玉田宿禰、主瑞齒別天皇之殯。則當地震夕、遣尾張連吾襲、察殯宮之消息、時諸人悉聚無闕、唯玉田宿禰無之也。 (日本書紀 巻十三)
ただ、この地震の被害状況などは記されていません。地震があったという事実だけがわかるのみですね。
(2)最古の南海トラフ大地震「白鳳地震」
日本書紀には他にも数多くの地震記録が残っているんですが、中でも大きかったと考えられるのが、天武天皇13年(西暦684年)に発生したとされる「白鳳(はくほう)地震」です。
壬辰、逮于人定、大地震。舉國、男女叫唱不知東西、則山崩河涌、諸國郡官舍及百姓倉屋・寺塔神社、破壞之類不可勝數。由是、人民及六畜、多死傷之。時、伊豫湯泉、沒而不出、土左國田菀五十餘萬頃、沒爲海。古老曰、若是地動、未曾有也。
(中略)
庚戌、土左國司言、大潮高騰・海水飄蕩、由是、運調船多放失焉。戊辰昏時、七星倶流東北則隕之。庚午日沒時、星隕東方大如瓮、逮于戌、天文悉亂以星隕如雨。是月、有星孛于中央、與昴星雙而行之、及月盡失焉。是年、詔、伊賀・伊勢・美濃・尾張四國、自今以後、調年免役・役年免調。倭葛城下郡言、有四足鶏。亦丹波國氷上郡言、有十二角犢。(日本書紀 巻廿九)
漢文で読みにくいですが、1行目に「大地震」という文字が見られ、前半部分の最後には「古老人が言うには、ここまでの地震は未曾有」という一節がありますね。
さらに、その後「大潮高騰」とありますから、大地震に合わせて大津波が押し寄せたということも伺えます。
この白鳳地震は、確実な記録が残るものとしては最古の「南海トラフ大地震」とされているそうです。近い将来発生が危惧されている地震の一つですね…。
こういった記録を見ていると、確かに一定周期・同じ場所で大地震が発生していることが浮き彫りになります。日々の備えって大事。
(3)貞観地震と富士山大噴火
その後も『続日本紀』『日本三代実録』といった歴史書や、鴨長明『方丈記』などの文学作品にたびたび地震が登場しています。
キリがないので省きますが、日本はずっと地震の巣だったということ、日本人は常に破壊されては復興するを繰り返してきたということがよく分かりますね。
古代の地震でもう一つ触れておきたいのが、869年に発生したという記録が残っている「貞観(じょうがん)地震」です。
この地震は三陸沖を震源とした巨大地震だったと見られ、陸奥国など沿岸地域を大津波が襲ったとされています。
お分かりでしょうか?
そう、この貞観地震は、2011年の東日本大震災とメカニズムが同じだったと考えられているのです。逆に言えば、東日本大震災は貞観地震の再来だった可能性があるということ。
「1000年に一度」と言われていたのは、これが原因だったのですね。
歴史上記録が残っているのだから「想定外」というのはふさわしくない、と思ってしまう部分もありますが…
ちなみにこの地震の5年前、864年〜866年にかけて富士山で大噴火が発生しています。
この噴火は「貞観大噴火」と呼ばれ、噴火によって押し寄せたおびただしい量の溶岩流が一帯を埋め尽くし、現在の青木ヶ原樹海や富士五湖の原型を生み出したとも…。
両者の関係性については解明されていないようですが、東日本沖の巨大地震と富士山の大噴火に関連があるとしたら…
これも備えるに越したことはないのでしょう。
2. ナマズが騒ぐと地震が起こる?
だいぶ駆け足で古代の地震について紹介してきましたが、ちょっと視点を変えてみましょう。
この言葉、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか?
なんでナマズ?って感じですが、これはもともとアジアの伝承が元になっているようで。理由は不明…引き続き調べてみます…。
とは言え、それこそ日本書紀の時代にはすでに、地震とナマズの間に関連性が見られているらしいのです。
ただ、一般大衆にこの考えが広く伝わったのは、江戸時代後期というか幕末のことなんですね。意外と新しい。
このきっかけになったのが、1855年に江戸の町を襲った「安政江戸地震(安政大地震)」でした。
当時は地震活動が活発だったらしく、本来は前後に発生した全国の大地震を含め「安政大地震」と呼ぶようですが、中でも被害が大きかった江戸地震を代表して「安政大地震」と呼ぶことも多いみたいです。
安政江戸地震の発生後、庶民の間で地震被害から身を守るお守り的なものが流行ったそうで。
それが「鯰絵(なまずえ)」という、大鯰の絵を描いた浮世絵のお札だったんです。
これがメチャメチャ流行ったようで、すっかり「ナマズが暴れると地震が起きるよー」っていう信仰が定着しました。
そもそも大鯰というのは、茨城県にある鹿島神宮に由来するもの。
鹿島神宮境内に「要石(かなめいし)」と呼ばれる、小さな石があります。
以前に鹿島神宮へ参拝した際、私も見たんですが…ご覧の通り、ホントちょっとだけ地面に頭を出した、何てことはない石です。笑
ただ、要石は掘っても掘っても終わりがないんだそうで…
地中深くにいる地震を起こす大鯰の頭をこの石で抑えている、という伝説が残されています。鹿島神宮による説明は以下の通り。
地中深くまで埋まる要石が、地震を起こす鯰の頭を抑えていると古くから伝えられています。水戸の徳川光圀公がどこまで深く埋まっているか確かめようと7日7晩にわたって掘らせたものの、いつまで経っても辿り着くことができなかったばかりか、怪我人が続出したために掘ることを諦めた、という話が黄門仁徳録に記されています。 (鹿島神宮)
いやいやいやいやいや…笑
光圀さん、あんた何やってんの。
というツッコミは置いておいて…
要石で大鯰を抑えている神様というのが、鹿島神宮の御祭神である建御雷之男神(タケミカヅチノオノカミ)なんですね。
タケミカヅチは、日本神話きっての武神と言われています。
古事記シリーズや、今後掲載予定の鹿島神宮の回で詳しく取り上げますが、日本神話における「国譲り」の段で活躍する神です。
鹿島神宮の境内には、タケミカヅチが大鯰を抑える様子を描いた「大鯰の碑」(上の写真)があります。
そんな超有名武神・タケミカヅチが大鯰を抑えていることから、鹿島周辺は地震があっても大きな被害は出なかった、と言われてきました。
この伝承を元に、タケミカヅチと要石のご利益を得るために「鯰絵」が広まったというわけ。
ただですね、ここで一個面白い話がありまして…
国立環境研究所によると、なんとナマズって東日本だと外来種扱いなんですね!西日本では古くからいた魚らしいんですが、愛知県よりも東側では、江戸時代以降の遺跡でしか発見されていないとのこと。
そうなるとナマズ文化ってのは西日本から東日本に伝わった、と考えるのが自然ですよね。鹿島神宮に伝わったのはいつなんでしょう?
うーん…いよいよ鹿島の大鯰が胡散臭い…笑
なお、大鯰を抑えていたはずなのに、なぜ安政江戸地震で大きな被害が出たのかという疑問に対しては「安政江戸地震が旧暦10月に発生した」という事実を用いて、こんな「言い訳」があるそうです。
10月は神無月で、タケミカヅチさんが出雲に行って不在だったから。
なるほど。。笑
3. まとめ
今回は「地震と日本人」と題して、古代の地震やナマズ伝説について、駆け足でご紹介してきました。
歴史を通して見えてくるのは、古くから日本人が地震を恐れていたという事実ですね。
そして「鯰絵」に代表されるように、地震からの加護を神に求めていたということも明らかになりました。
現在は科学が進歩して、たとえば阪神・淡路大震災は野島断層帯が引き起こしたとか、東日本大震災はプレート型とか、原理がわかるようになりました。
とは言え、どんなに科学が進歩しても予知することは叶っていません。
ある意味で「地震が起きませんように」「起きても大きな被害が出ませんように」と願う、神頼み的な部分はずっと受け継がれているのかもしれませんね。
最後になりましたが、改めて阪神・淡路大震災でお亡くなりになった方のご冥福をお祈りしつつ、今日の記事を終えたいと思います。
(参考文献)
・山折哲雄監修、田中治郎著『新版 面白いほどよくわかる日本の神様』日本文芸社, 2013
・武光誠監修、柾朱鷺マンガ『マンガでわかる天皇』池田書店, 2018
※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。