【2020年1月12日】母系社会と父系社会〜日本の家族の歴史〜
《この記事の文字数:4,076》
ちょっと読み応えアリ
どうも、chimonです。
今回は日本の「家族の歴史」とも言うべき、「母系社会と父系社会」についてご紹介していきます。
1. はじめに
昨年、前の天皇陛下が生前譲位され上皇陛下となり、新たに「令和」という時代が始まりました。
そんな皇族にまつわるもので、よく話題に上がるのが「皇位継承問題」。
日本の皇室では、1965年に誕生した秋篠宮文仁親王(あきしののみやふみひとしんのう)以来、男性皇族が長らく誕生していませんでした。2006年に悠仁親王(ひさひとしんのう)が誕生したことでひとまずの猶予は得られたと考えられていますが、そもそもなぜこれだけ皇位継承が問題になるのでしょうか。
その最大の原因が、皇室典範において「男系男子」しか天皇への即位が認められていないからです。
What's 男系男子?笑
実は、歴代天皇に関しては神代のころから、男系制が踏襲されてきたとされています。ただ、それを見直していくべきなんじゃないかという議論が湧き上がっているというわけ。
男系制の対義語は、女系制。
この男系制や女系制というのは、一族の血統の中で考える場合「父系制」「母系制」と呼ばれることが多くなっています。
2. 母系制と父系制って何ぞや?
ここまで皆さんを置いてけぼりにしてきましたが笑、母系制と父系制についてわかりやすく説明しておきましょう!
主なポイントをまとめると…
<母系制>
- 母系出自:血筋が母方の家系に由来する。
- 母系相続:母方が持つ財産や地位を相続する。
- 母方居住:結婚後も妻は実家に残る、もしくは夫婦で妻方の共同体に拠点を置く。(これは必ずしもマストの条件ではない)
<父系制>
- 父系出自:血筋が父方の家系に由来する。
- 父系相続:父方が持つ財産や地位を相続する。
- 父方居住:結婚後は、夫婦で父方の共同体に拠点を置く。(これは必ずしもマストの条件ではない)
うーん、やっぱり何だかややこしい。笑
ざっくり「妻の実家への通い婚がスタンダード=母系制」と覚えれば、まあOKでしょう。
間違ってはいけないのが、母系制=女性が実権を握る家族制度ではない、ということ!
あくまでも「母方の血筋を、その人の出自や血統の根拠とする仕組み」というだけであって、母系制の下でも、実際に権力を持っていたのは女性の父親や男兄弟などでした。
この点を理解していないと、よく勘違いしがちなのが「女性天皇」と「女系天皇」の違い。
「女性天皇」と言うと、単純に女性の天皇のこと。わかりやすい!
一方で「女系天皇」と言った場合には、天皇や高位の貴族である母親を持つ天皇、ということになります。つまり、天皇自身の性別は関係なく「女系の男性天皇」というのもあり得るわけです。
ただし、冒頭でも紹介した通り、現在の皇室典範では「男系の男性天皇」しか認められていないため「天皇の血を継ぐ父親を持つ男性皇族」だけが、皇位継承の権利を持っています。
皇位継承に限らず、近代の日本においては、制度上父系制の色が濃いと言えます。男女が結婚した際、女性の名字が変わる=妻が夫の家に嫁ぐという割合が圧倒的に高いですからね。
ただ、現実的には母方の出自も認める(母方のおじいちゃんが〇〇家の血だから、私もその血を継いでいる)側面がありますし、共働き世帯の増加によって妻の実家との繋がりが強まる傾向にあるので、日本はどちらの性格も帯びている「双系社会」だという説もあります。
3. かつては母系社会が一般的だった
日本に限らず、現在は世界的に父系制をメインとした父系社会の国が多いです。
ただ、かつては母系社会が一般的だったと言われています。
「どういうこと?」と思われるかもしれませんが、これは結構考えれば当たり前の話でして…
(1)先史時代は母子関係が重要
先史時代の人間は、狩猟採取生活を営んでいました。
このころは「家」というよりも、血縁関係のある集団生活という色が濃かったのです。そうなると「誰が父親か」というのは、割合どうでもいい話だったんですね。
母親が妊娠して子どもを出産するわけなので「生まれた子の母親は誰か」というのは、誰が見ても明らかです。一方で、集団生活をしている以上、父親が誰かなんていうのは正直わかりません。
当時の集団においては、働き手となる人間を確保することが最優先。その働き手を産む母親こそが、最大の功労者であり集団の中心だったのです。
日本では、稲作が伝来し農耕文化が定着し始めた弥生時代においても、似たような状況だったようです。
この点については、武光誠著『日本人なら知っておきたい日本』で次のように触れられています。
この時代の男性と女性の関係は固定しておらず、子づくりの主導権をもつ女性が、その時々で気の合った男性を相手に選んでいたらしい。働き手である人間が貴重であった時代だったので、子供たちは父親が誰であるかを問われることなく、集落全体の子供として大切にされてきた。
武光誠『日本人なら知っておきた日本』P178より引用
先史時代においては母親が権力を誇る「母権制」が一般的だったという学説も提唱されましたが、現在では否定的な論調が強いそうです。
なぜなら、こうした状況下においても、やはり力の強い男性が政治的権力を握っていたと考えられるから。
ただ「母親は確実にその子を産んだ親である」という考え方は重要で、これこそが母系制の最も大きな基盤になっている考え方、と言えるでしょう。
そんな中、母系制から父系制に移行する大きな要因となったのが、農耕社会によって争いが増えたことでした。
農業が発達し始めると、農作物の収穫量によって貧富の格差が生まれてきます。すると、富を求めて集団同士で争いが起こるようになるのです。
争いの中心となった男性たちは、自らのテリトリーや集団の繋がりをより強固にするため、自分の血筋を受け継ぐ者たちを後継者にしようと考えました。かつての「血統でなんとなく繋がった集団」ではなく、自らの血統を継ぐ者たちによる「家族」を作ろうと考えたのですね。
結果、父親の血統が重視される父系制へと移行していったようです。
(2)日本は中世まで母系社会が残っていた!
ただ、日本においては、その後もしばらく母系社会が続いていたと言われています。
そこに大きな変化がもたらされるのが、仏教などとともに持ち込まれた中国の政治制度です。中国では父系制が取り入れられていたため、日本でも徐々に父系制が浸透し始めていきました。
真っ先に父系制を取り入れたのが大和政権、つまり今の天皇家ではないかと考えられるのです。当時の先進国・中国の制度を取り入れることで、中央集権体制を強固にしようとしたのでしょうね。
とは言え、天皇家以外ではしばらくの間、母系制が中心であり続けました。
実際「源氏物語」では、平安時代の貴族が母系制を取り入れていたことが記されているのです。
平安時代の恋愛や結婚には、母系制から父系制への変化が感じられる。
(中略)
平安時代の習慣では、家や財産は娘が相続し、息子は他家へ婿取りされることになっていた。一方で、政治権力は父子・兄弟が相続した。
その後、高位なところから徐々に父系制が広がっていきますが、中世の武家社会においても、母系を重視する伝統は色濃く残っていました。
(前略)武士の時代の日本には母系制にもとづく「子供たちの母親が家の中心である」とする発想が根強く残っていたのである。
家長とは、一つの「家」を代表して外との交渉、つまり「公」の部分を担当する者にすぎない。だから武家社会でも、父系の他に母親や妻の出自つまり母系を重んじる考えが根強く残っていた。
武光誠『日本人なら知っておきた日本』P190より引用
形式上は家父長制を取りつつ、血筋においては母親を中心とするという、双系社会的な考え方が一般的だったと言えそうですね。
(3)西欧文化の影響は絶大だった
江戸時代には儒教の影響を受け「家」制度が一般化しました。その後、日本において本格的な父系制が定着するのは、明治に入ってからのこと。
文明開化によって西欧の文化が入ってきたことで、結婚制度が劇的に変化します。
それまで柔軟で流動的だった日本の結婚制度は、欧米に倣った「一夫一妻制」が厳格に運用されることとなりました。
これによって、家庭内における男性の権利が一気に強まることとなり、結果的に現在まで続く男女不平等の足がかりになってしまったと言われています。
うーん…時代の進歩って複雑。。
ちなみに「恋愛の日本史」なんて記事もアップしてるので、ご興味あればぜひ!
himekuri-nippon.hatenablog.com
4. まとめ
こう考えると、もともと日本の家庭というのは女性本位のところがあったと言えそうです。
今となっては西欧から「日本の男女不平等は是正されるべき」なんて指摘を受けますが、元来そういう文化を持っていたのは、むしろ西欧の方なんですよね。
だって、一夫一妻制はユダヤ教〜キリスト教の原則ですし、家父長制だってヨーロッパ発なんですもの。
今回紹介した母系社会と父系社会というのは、家族の血統の問題でありながら、「家族とは何か」「男女の役割って何か」という根源的な問いを浮き立たせるものかもしれません。
「かかあ天下」なんて言葉がありますが、少なくとも私は女性が元気な家庭は、とても幸せな家庭だと思っています。
少子高齢化・人口減少が叫ばれる現代の日本だからこそ、改めて「家族の歴史」とも言えるこの問題について、学ぶことは大切なのではないかと思うのです。
では。
(参考文献)
・武光誠著『日本人なら知っておきたい日本』育鵬社, 2018
・砂崎良著、上原作和監修『マンガでわかる源氏物語』池田書店, 2019
※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。