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【2020年1月3日】門松なのに竹じゃないか!年末年始突如街に現れるアイツの謎《後編》

《この記事の文字数:2,942》

サラッと読める

どうも、chimonです。

今日は「門松」について深掘りする後編!

 

まだ読んでいない方は、昨日アップしている前編をぜひチェックしてみてくださいね。

 

https://himekuri-nippon.hatenablog.com/entry/2020/01/02/120000

 

門松のイメージ画像

門松のイメージ

 

≪前編からの続き≫

 

4. 門松さん、君はどこから来たんだい?

 

まずは前編のポイントをざっくりまとめると、こんな感じ。

 

門松は年神様を迎えるための目印であり、依り代である。つまり、年神様が降臨する縁起物かつ神聖なもの!

 

  • 松は、常緑樹であること、神様を「待つ」ということなどから神聖視された。このことから、門松に松が用いられるようになった。 
  • 門松は、あくまでも松が主役。竹が目立つけど、松が主役。
  •  門松には、竹を斜めに切った「そぎ」タイプ・竹を水平に切った「寸胴(ずんどう)」タイプ・松だけを使ったタイプなどがある。
  •  「そぎ」タイプと「寸胴」タイプがなぜ誕生したかについては諸説あるが、戦国時代における徳川家(松平・松)と武田家(竹)の関係がルーツという説が、chimon的には好き。笑

 

で、問題は門松という風習が、どうやって生まれたかということです。一般的に言われるもの、俗説含め2つの説をご紹介します。

 

 

(1)平安時代の「小松引き」から変化した説

 

1つ目の説は、平安時代の貴族で流行していた「小松引き」という遊びが門松に変化していったというものです。

 

東京国立博物館のブログ記事で、この点が解説されています。

www.tnm.jp

 

新年最初の子(ね)の日に、野山に出かけて小さな松の木を引き抜いてくる、という遊びだそうで。何が面白いのかよくわかりませんが、それが風流だったんですかね。

 

門松の種類で3つ目にご紹介した「松だけの門松」は、まさに小松を引き抜いた姿に見えなくもないですよね。そう考えると、有力な説と言われているのも頷けます。

 

 

(2)古い皇室の習わしに由来する説

 

もう1つの説が、喜多川守貞が記した『守貞謾稿(もりさだまんこう)』で紹介されている、古い皇室の習わしに由来するものという説。

 

守貞が記すところによると、かつて新年を迎えるたびに宮城(きゅうじょう)の中門の左右に、大楯槍(おおたてぼこ:宮廷行事で使われた祭具のようなもの)を立てるという風習があったそう。

聖武天皇(しょうむてんのう:第45代天皇、在位期間724年〜749年、仏教政策を推し進めたことで知られる)の御代(みよ)、実際に大楯槍が設置された記録についても紹介されています。

 

このことは確かなようで、745年の正月元旦、現在の滋賀県にあった紫香楽宮(しがらきのみや)へ一時的に遷都された際、新しい宮殿の門前に大楯槍が設置されたという史実があるようです。(紫香楽宮ホームページより)

 

www.ac-koka.jp

 

大槍楯の姿を模して、田舎から広まっていたのが門松ではないか、というわけ。

 

これだと「なぜ松なのか」という疑問は残るものの、形状的にはあり得なくもないと思いますよね。どちらかというと、最初から竹がセットだったと考えた方が自然ですけど。槍の形状を考えると、竹で表現したっていう方がすんなり受け入れられますよね。

 

 

(1)(2)どちらの説を採用するにせよ、古く皇族や皇室で行われていた風習が、いつの間にか門松として一般化した、ということは間違いなさそうです。

 

 

5. 江戸幕府って凄かったんですね

 

門松の意義や由来がわかったところで、最後に門松を飾る時期について深掘りしていきましょう。

 

正月、門松を飾る期間のことを松の内と言います。

 

この松の内の期間は、地域によって異なるってご存じでしたか?

読者の皆さんのお住まいの地域によって、主に下記の通り設定されます。

(他の地方では1月8日までのところもあるのだとか)

 

関東:元日〜1月7日まで

関西:元日〜1月15日まで

 

ここで純粋に疑問なのは、何で関東と関西で違うのかという点!

 

関東と関西で文化が違うというのはよくある話ですが、調べてみると、松の内については明らかに人為的な操作があったようなのです…!

 

 

それが…

関東の松の内は、江戸幕府によって期間を変更された」という衝撃的な事実!

 

どうやら、もともとは関東も松の内は1月15日までだったようなのです。

 

ところが、江戸時代前期の寛文2年(1662年)、門松を7日でしまうよう幕府の命が下りました。先ほどから登場している『守貞謾稿』にも、下記の通り記述があります。

 

「江戸も昔は、十六日に門松・注連縄等を除き納む。寛文二年より、七日にこれを除くべきの府命あり。今に至りて、七日これを除く。これ火災しばしばなる故なり。京阪は、今も十六日にこれを除く。」(守貞謾稿)

 

理由として記載されている「火災しばしば」というのは、恐らく府命発布の5年前に発生した明暦の大火を意図しているのではないか、とみられます。1657年の旧暦1月に発生した明暦の大火は、江戸の町を襲った大火としては最大級のもので、江戸城天守閣もこの大火で焼け落ちてしまいました。

 

内閣府・災害教訓の継承に関する専門調査会報告書の資料「1657 明暦の江戸大火」によると、明暦の大火が発生する直前の正月から、江戸市内で火災が頻発していたという事実が判明しています。

 

こうしたことから、火災の火種となる正月飾りをなるべく早く片付けるよう、江戸幕府が市民に命じたのでしょう。

 

江戸幕府の命令が、松の内の期間を変えさせたというのは、何だか凄い力だなと感じませんか?

 

さすが、江戸幕府って影響力が凄かったんですね。

同時に伝統は常に更新されているんだと、改めて感じます。

 

 

6. まとめ

 

前後編にわたり門松について深掘りしてきましたが、門松の奥深さを感じることができたのではないでしょうか。

 

年末になると当たり前のように飾られ、気づけば当たり前のように撤去されている門松ですが、調べてみれば非常にありがたい縁起物だったわけですね。

 

私は、よく感じていることがあります。

それは、前回の初詣にしても、今回の門松にしてもそうですが、「日本人は何となくで行動しすぎ」ということです。

 

当たり前を当たり前と思わず、自分や周りの人がなぜそのように行動するのか、なぜ伝統行事を行うのか、意味を一つひとつ理解しようとするだけでも、色んな世界が開けるはず。

 

古来の風習が形を変えながら、今日まで息づく門松。

 

この記事を読んだら、寒風の中、対で家を見守ってくれている門松に、そっとお礼をしたくなるかもしれませんね。

 

 

(参考文献)

 

・喜多川守貞著、宇佐美英機校訂『近世風俗史(守貞謾稿)(四)』, 岩波書店, 2001

 

 

 

※本ブログの記事は、参考文献等の記載事項を基にして筆者独自の考えを交えて展開するものです。歴史的事象には諸説あるものが多いため、あくまでも一つの説として捉えていただきますようお願いいたします。